小堀鷗一郎さんと養老孟司さんの対談、興味深く読みました。
P64
養老 僕は「気がついたら死んでいた」がいいです。よく、「死ぬならがんになるのがいい」と言う人がいます。死ぬ前に準備ができるから。だけど僕は、そういうことをしたいとは思いません。行きあたりばったりのほうがいい。
小堀 僕も全く同じです。「往診中、車を駐車場に入れた時に」と答えたこともありますが、聞かれればそう言うこともあるだけで、確固たる何かがあるわけではありません。
ただ、病院のベッドで寝ていたくはないですね。・・・そもそも、一日のリズムが決められていますし、ご飯が美味しいとは言えない。だから病院では死にたくないですね。
養老 僕も病院は嫌です。だって禁煙だから(笑)。それに象徴されています。いろんなことをきちんとやらなくてはいけない。・・・
P180
小堀 僕にとって生と死の境目は、非常におぼろげなものになってきています。詩人の茨木のり子さんの「さくら」というタイトルの詩に「死こそ常態 生はいとしき蜃気楼」という一節があるんです。わかる気がします。
・・・
僕は八十二歳になったけれど、常にそういう思いで、生の後ろに死、死の後ろに生を見ています。「死を怖れず、死にあこがれず」です。
P71
虫捕りは、小学四年生くらいから本格的になって、その頃から標本を作っていました。・・・
山岳部の学生と一緒に山に行くと、彼らのほうが先にバテます。でもそれは当たり前だと思って。だって僕、何年やっていると思います?小学校四年から続けていますから。それでも飽きない。山に登ろうと、歯を食いしばっていたらバテます。僕は遊びながらやっているから、余分に歩いたって平気なんです。
これが人間の変なところで、遊び半分でやったほうがいい。人生は遊び半分でいいんです。
P87
小堀 生前に献体の登録をする「白菊会」は、まだあるんですか?
養老 はい。・・・
・・・献体する人は減少してはいません。献体すれば後のことは、全部大学が面倒を見てくれますから、家族にとっても悪いことではないんです。毎年天王寺(台東区谷中)というお寺で、慰霊祭もやっています。
でも、バカな人がいて、慰霊祭が憲法違反だと言ってきたことがあるんです。国は宗教活動をしてはならないという法律があるのに、国立大学がやっていると。
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そこで印象的だったのが、・・・法学部の松尾浩也部長に、医学部の学則と法学部の学則を比べて、ここの条項の語尾だけが違うけれど、法学的に何か意味があるんでしょうか、と聞いたら、松尾先生は「解釈せよとおっしゃれば、いかようにも解釈できます」と言ったんです。
これは、世の中のことがものすごくよくわかっているということです。つまり世間は言葉では縛れない。それを法学部の人はよく知っている。だから、最初からできるだけ解釈の余地が残るように作ってある。それが大人の法律です。
それで僕は、慰霊祭はこれまで通りやると決めました。憲法違反かどうかは、法律の解釈の仕方によると考えたからです。
だけど、今は逆でしょう。解釈の余地がないようなルールを作って、普通の人が官僚みたいなことを言います。まるでコンピュータです。人間は適応性が高いから、コンピュータに似てきます。・・・人間は融通が利くものだと忘れているんです。人は柔らかいということに気がついていない。
・・・
情報というのは瓦礫の山なんです。・・・
・・・人間の柔らかさはすごいのに、それをわざわざ硬くしようとしています。瓦礫ばかり見ているからです。明日になっても変わらないものばかりでしょう。瓦礫の山を溜め込むことを「情報過多」と言うんです。
「おまえは昔こんなことを言っていただろう」と責めるのはバカなんです。「それ、俺じゃないよ」と。十年経ったら俺じゃない。
小堀先生もずっと変わってきたわけです。それが生きているということで。・・・