植物も昆虫も

未来のルーシー ―人類史のその先へ―

 タコやイカの知性、植物と昆虫のコミュニケーション・・・この世界ってほんとに多様だなぁ・・・と思いました。

 

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中沢 ヨーロッパ的発想で言うと、人間をモデルにするときは、脳があって中枢神経系がある。脳の統合作用によって主体がつくられるという生物観です。そういう人間をモデルにした世界モデルには危険性があると思います。今西さんが考えていた生物をモデルにする世界は、脳と中枢神経は決定的な要因になりません。

 

山極 中沢さんがよく例に出される粘菌はまさにそうですね。

 

中沢 私はここのところ必要があってユングを読み直していたのですが、ユングが強くそういう発想をする人でした。脳で考えていないのだと。河合隼雄さんにもこの発想が強くあって、脳と中枢神経だけが知性の居場所とは思っていない。

 ここには、インテリジェンスとは何かという根本的な問いがあります。ヨーロッパ人が考えるインテリジェンスは脳と中枢神経系を中心に置くのですが、東洋人、特に日本人の思考方法のなかには、知性は分散的で、中枢神経に集まっているのではなく、ニューロンとも違うところで働いているものがあるという認識があります。そうしないと、生命世界全体の進化やモデルは考えられないでしょうからね。

 

山極 そうですね。最近西洋の、特に動物学者はそれに気がつき始めています。例えばタコやイカはものすごく高い知性を持っています。人間が見て驚くほどです。タコは八本の脚にすべて神経系がありますが、これは中枢神経系ではなく、分散神経系です。これによっていろいろな出来事に対処しています。色も変えたり、危険が迫るのを感じて、隠れたり移動したりもできます。そして、擬態したりもする。非常に高い知性を持っているからこそ、生き延びることができるのです。それは中枢神経系を持っている動物にもわかるような知性なのですが、原理は根本的に違うのです。中沢さんがおっしゃるように、中枢神経系が必ずしも必要なわけではない。中枢神経系を持っているから高い知性を持っているというわけではありません。世の中の生物界に起こるいろいろな出来事や問題を解決するために、いろいろなやり方があるのです。しかもそれは、中枢神経系を持っていようと持っていまいと、わかりあえるものなのだということです。

 私が最近よく考えているのは、人間は言葉を持ってから随分変な方向へ行ってしまったということです。近年わかってきたことですが、生物は昆虫であろうと植物であろうと、コミュニケーションをとっている。コミュニケーションのとり方は、よく現象を見てみれば、人間でもわかるものなのです。例えば先ほど共生という話がありました。長い時間をとってみれば、一生の長さが全然違う植物と、ほんの数日しか生きていない昆虫が互いに感応しあって、お互いを助けあっている。それは因果論的に、西洋の科学のように、対立しあうものから共生しあうものになったというストーリー展開だけで説明できるものではありません。では、その感応しあうということが、どういう時間的経緯とプロセスでできるのかということは誰も説明できない。しかも、一個体だけでなく、すべての種の個体が同じような反応を示すでしょう。なおかつ、生物界は同じことが二度と起こりません。同じような、しかし少しずつ違う現象が起こりながら、なおかつ調和がとれて進んでいっている。これを西洋の科学でどう解説するのかは非常に難しい。そこには因果論的説明だけでは解釈できないことが潜んでいるわけです。そこに思い当たらないといけないと思います。

 

中沢 仏教のレンマ思考をもっとも幅広く展開したのが華厳経ですが、華厳が行っていることを土台に「学」的な思考を立ててみると、世界の構図は根本的に変わってきます。今まで科学や思想が問題にしてきたことが、すんなり解けていく。ヨーロッパ的な科学が先端で向かっているところで問題にされていることもまったく同じだと私には見えます。とにかく、そういうレンマ的な思考を土台に据えて学問をつくり上げたいと思っているわけです。