未来のルーシー

未来のルーシー ―人類史のその先へ―

中沢新一さんと山極寿一さんの対談本、興味深く読みました。

 

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中沢 山極さんがお書きになっていたこと〔「類人猿はなぜ熱帯雨林を出られなかったのか―人類進化の分かれ道を探る」『現代思想』二〇一六年一二月〕で面白いと思ったのは、ゴリラの赤ん坊はギャーギャー泣かないのに、人間の子どもはギャーギャー泣くということです。その原因は、ゴリラの子どもはすぐに身体能力が発達するからお母さんの手を掴むことができ、生まれたときからずっと母親と接触することができるからだと。一方人間の子どもの場合、身体能力が劣っているし体が重いから、母親と離れているために泣くのだと。

 それを読んですぐに思い出したのは、フロイトの研究です。フロイトが象徴機能の発生について書いている文章があるのですが、元になったのは彼の家庭内で起こった実体験です。年を取ったフロイトは、あるとき孫の世話を頼まれました。お母さんがドアを閉めて外へ出てしまうと、フロイトと小さい孫の二人になります。子どもは非常に不安そうで、今にも泣き出さんばかりです。そのうちお母さんが持っていた糸巻きを見つけて、それを向こうへ投げるという遊びを始めました。そのとき「いない(Fort)」と言う。糸巻きは投げるともちろんあるところで止まりますよね。それを引き戻すと、今度は「いた(Da)」と言う。「いない」「いる」「いない」「いる」……という反復が象徴の根源をつくると同時に、糸巻きと母親の取り戻しを記号で同一化させている。糸巻きを自分のところへ持ってくるとお母さんが自分のところへ帰ってきたのと同じようになって、ニコニコ笑う。じゃあそこでやめておけばいいじゃないかと思うのだけれど、子どもは際限もなくまた投げる動作を繰り返す。それは恐怖感を再現しようとしているようにしか見えない。これが「死の欲動タナトス)」というフロイトの有名な概念に結びついていく。

 私は山極さんの文章を読んだとき、人間の記号発生の起源において、子どもが母親の身体から離される恐怖を覚えることと泣き出すことというこの二つが大きく関係しているのではないかと思いました。

 

山極 面白いですね。実は私は同じようなものが子どもと親だけでなく大人の人間同士にもあると思っています。例えばゴリラでもチンパンジーでも、ある個体が集団からいなくなれば、死んだも同然と見なされます。その個体は帰ってきませんから。もし帰ってくることがあったとしても、まったく別のものとして帰ってきます。そしてそれまでとはまったく違う関係がそこでつくられる。でも人間の場合、帰ってくるものとして期待されますよね。出ていった人はいつか帰ってくる。昔ゴリラやチンパンジーの共通祖先と分かれた頃は、人間は出ていったら帰ってこないものだと考えていたでしょう。でもいつかそれが必ず帰ってくる、出ていくのは帰ってくるからだというふうに往復で考えることが可能になった。だからこそ人間の集団はかなりいろいろなかたちでつくり変えられるわけです。・・・

 つまり、・・・自分と最も近しい人は自分の近くにいるわけではない、離れてまた戻ってくるのだ、というふうに考えながら人間形成をするわけです。それがまさに人間の社会を原型づけているというか、そういうふうにして人間は人間と離れられるようになったのです。ゴリラは常に群れの仲間がいっしょに行動しますが、チンパンジーは離れてしまうともう不安で不安でしょうがない、離れたらとにかく近づこうとする。そして近づくときには、抱擁したり、キスしたり、握手したり、毛づくろいをしたりしながら、一生懸命不在の時を埋めようとするのです。それはもう見ていていじましいくらいな熱心さです。人間の場合、「やあ」で済むわけじゃないですか。・・・こんなことが可能になっているのは、やっぱり赤ちゃんの頃からそういうことを経験しているせいなのではないかと思います。

 

中沢 ・・・同じものが帰っても、本当は別のものです。蕩児の帰還みたいなもので、何年間も外へ行って戻ってきたやつが同じわけがないのだけれど、それを同じだと認知して迎えるというときには、その間の何年かの体験はチャラにしているわけです。共通部分だけを取り出して同一性を認めているわけですから。となると、そこにゼロに戻す機能がつねに働き出します。それは月の満ち欠けの観察が新石器時代の象徴物で非常に重要な働きをしていたこととも関わっているのでしょう。

 いずれにしても、物事をチャラにできるという能力はゼロの能力です。あらゆる比喩にはこのゼロが働いています。