禅についてなど、伊藤比呂美さんが、藤田一照さんに質問する、お二人の対談形式だったので、難しいことも、ちょっとわかりやすく感じられました。
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比呂美 そのアートマンとブラフマンっていうのも、ちょくちょく出てくるんですが、読んでも、読んでも、ぜんっぜんわからないんですけど。説明してください。
一照 アートマン(我)は個人の本体として考えられているもので、それ自体で存在し、他とはまったく無交渉、無関係に独立自存しているんです。だから永遠不変の実体。一方、ブラフマン(梵)は宇宙の本体、根本原理のことです。瞑想によってアートマンとブラフマンが本質的に同じものである、つまり「梵我一如」を悟ることによって輪廻転生の繰り返しから脱出することができるというのが、インドのスピリチュアリティの主流の考え方なんです。
比呂美 ・・・それはシッダールタも言ったことなんですか。
一照 いいえ、シッダールタはむしろ梵とか我といった教義に批判的でした。・・・シッダールタは「アートマンなんてものはない」と主張した。・・・
・・・我として認められるものはない、というのが無我ですから。仏教の考え方では、すべては変化するのでアートマンのような永遠不変の「例外」的存在を認めないんですよ。縁起というのは別のいい方をすると「すべては条件(縁)によって生起(起)する」ということだから、アートマンみたいなものが存在する余地がない。たとえばベトナム出身の禅僧で平和運動家、詩人でもあるティク・ナット・ハンさん(一九二六~)は、こんな表現をしています。「あなたが詩人なら一枚の紙に、雨、雲、木、大地、太陽、そういったものが全部見えるはずだ」と。つまりこの紙は雨や雲といった「紙でない要素」からできていて、それを全部取ったら、紙は存在できないと。・・・
・・・つまりこの紙一枚が存在するためにも、紙以外の宇宙すべてがこれにかかわっている。・・・それが縁起の考え方で、仏教はこれで全部一貫しているんです。・・・
P93
一照 坐禅は体と心をフルに活かして、仏教そのものを実地でやることです。だから頭も心も魂も体もみんな働いてもらう。そればかりじゃなくて床からの助けも使うし、空気も使うし、湿度も、つまり環境も全部坐禅の一部になっている。だから縁起の全体、わたしの関係性全部を使って坐禅しているといってもいい。
比呂美 縁起を全部使う?
一照 縁起って、ここから先は縁起じゃないって境界線を引けないから、宇宙大のネットワークじゃないですか。一切合切全部がつながっている。
比呂美 ほんとにそう!宇宙大のネットワークだなんて、すごくチャラい言い方だけど、そのチャラさがしっくりくる。
一照 すでにそこにあるものを全部活かして「すべてのものとつながって今ここでこうして生きている自分」ということを純粋にやる。自分を自分する、と言ってもいい。沢木興道老師の言葉を借りると、「自分が自分で、自分を自分すること」ですね。
・・・
さきほど紙を例にして少し説明しましたが、一切が自分の内容になっている。言い換えると、一切何も排除するようなものはないし、そんなことできないということですよね。もう現に起きていることは現に起きていることなんですから、選り好みしないで全部受け取るしかない。縁起というのは、すべてがつながりあって刻々と変化していることだと言いましたよね。だから今の瞬間、今の瞬間、全部一回きりでもう二度とないような在り方で、どんどん展開している。ところが僕らは普通それにいつでも文句とか不満があって、何か足したいとか引きたいとか、いじりたいわけですよ。こっちの都合のいいように変えたい。
・・・赤ちゃんは縁起のままに生きているけれど、ものごころがつくと、僕らは、自分という存在を縁起の網の目から切り離して独立したものであるかのように考えてしまう。そして、その観点から縁起に影響を与えてコントロールしようとする。
・・・
・・・僕らは普段自分を切り離して、切り離した自分を前提に物語を紡ぎだしているわけです。・・・
・・・で、坐禅というのは、それをよく見て物語の制作を一時的にやめること。それをやめたら切り離す前の本来のつながりに帰れるというか、もっと正確に言うと本来のつながりはやめようがやめまいがずっと続いているんですが、切り離しをやめるとそれに直接親しめる。
比呂美 自分を切り離すと、いろいろな苦ができてくる。坐禅というのはすべてを使って自分する、というわけだから、全部につながていって切り離さない。
一照 閉じている自分を開いていく、と言ってもいいかな。だからまず、リラックスすることが大事になるんですよ。・・・
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一照 アメリカにいた頃の話なんですが、僕は合気道の黒帯なので、・・・稽古熱心な大男たちが僕とやろうとして、ワーッと寄ってくる。こちらもメンツがあるからそりゃあ一所懸命にやったんです。それでくたくたになって禅堂に帰ってきたらまもなく坐禅する時間だった。こりゃ絶対に寝ちゃうなと思ったのに、そのときの坐禅はすごく楽で眠くもなく、深く集中したものだったんです。・・・
・・・坐ったとたんに自分の中も外も「しーん」という感じだね。合気道の猛稽古であらゆる関節が伸ばされて、余分なエネルギーを全部使い果たしていたのか、坐っている自分の体が透明になったような感じでした。自分という余計な意識が消えて、ただ出来事だけが起きているというか……。雑念も浮かんでこないし、呼吸もすごく微かで。
・・・
・・・それからいちばん大きいのが、僕が坐禅に何も期待していなかったからじゃないかと。こんなに疲れているから坐ったら寝ちゃうかもしれないけど、坐禅の時間がきたからしょうがない。寝てもいいからとにかく坐ろうと思って何の期待もせずに坐ったら、え、頑張ってもいないのにこんなにちゃんと坐れていいの?という感じで。自分が努力している感じがまったくしなかったんです。坐禅ではこうしよう、ああしよう、こうでなければ、ああでなければという意識の運び出しをしないほうがいいんだなと悟りましたよ。そういうのをみんな放り出してただ坐ればいいって。