坐禅は心の安楽死

坐禅は心の安楽死 ぼくの坐禅修行記 (平凡社ライブラリー)

今から40年ちょっと前に出た本が、10年くらい前に形を変えて再販されたもの・・・ですが、全然時代のズレを感じません。面白かったです。

 

P18

 最初の坐禅はあまりきつかったので、ぼくは一日中不平をいっていた。というのも全くこちらの主体性を奪われたままだったからである。とにかく決められたことはいやでもその時間内にやらなければならないのだ。相手の主体に従うことが自分の主体でもあった。ところが相手の主体に抵抗するならば即こちらが悩まなければならなくなってしまう。自分の流れではなく相手の流れに乗るということに気がつかなかったから苦しかったのである。このことがわかるまで五日かかった。一旦相手の流れに乗れば、逆にすべての時間が自分のものになってしまうこともわかった。

 

P125

 ぼくが今度雪担師(川上雪担。新潟県にある東山寺住職)を訪ねてわざわざ新潟県の東山寺までやってきたのも、ここへ来れば形式的な坐禅をしなくてすむと思ったからだ。・・・

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 雪担さんは他のお坊さんのように「無」とか、「空」とか、「仏」とか、「宇宙」というような仏教用語はいっさい使わない。あっちの世界には観念は存在しないのだろう。・・・あっちの世界というのは別にこっちの世界と何ひとつ変わっているわけでもなく、このままであるという。雪担さんのいう現象界とあたり前の世界をよりクリアーに知覚することがわれわれが俗にいう悟りの境地と呼んでいるところのものかもしれない。・・・

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 現在から数えると十七年ほど前、ニューヨークでぼくは初めてドラッグを体験した。その時、目の前にあるグラスを摑もうとして手を伸ばした。この時不思議な感覚がぼくを捉えたのを今でもはっきり憶えている。というのは、本来ならぼくの手がグラスに近づくにしたがってその距離は縮まっていくはずだが、この時は全くそんな風には考えられなかった。ぼくの手がたとえグラスと一センチのところにあっても、グラスに手が触れない限り手とグラスの距離は月と地球の距離に等しいということを感じたのである、つまり、一センチも何十キロも距離にかんしては変りないということだった。距離に長短を決めたのは人間で、神の世界では距離などはないはずだ。それと同じように、時間ももともとないのかも知れない。

 続いて、誰かが机の下に隠れた。本人は隠れたつもりなのだろうが、ぼくにしてみれば隠れるというそのような状態はありのままの世界ではもともとないように感じたことがある。このようなぼくの経験を雪担さんに話したところ、あっちの世界の状態とよく似てるということだった。しかし、ドラッグと根本的に異なることは一度その世界を体験してしまうと、泳ぎのコツを覚えると一生忘れないのと同じように、常にそうした状態にあるという。その状態はきっとカスタネダのいう分離したリアリティであり、われえわれが存在と呼ぶところのものをいうのだろう。

 いってしまった世界が実はわれわれの中にすでにあり―いやもしかすればわれわれさえいっているのかも知れない―しかし、誰もそんな風には思わないから、どこかにきっと素晴しい世界があると思って、観念の世界を駆けめぐっているのである。観念はあくまで観念で、観念の中なんぞに真理などあるはずはない。