久しぶりに角田光代さんのエッセイを読みました。
面白かったです。
こちらは、「私的『はじめに言葉ありき』」というタイトルのお話。
P45
・・・ひょんなことから猫がきた。猫を飼うことがあるなんて想像もしなかった。五年たっても、家でくつろぐ猫を見て未だに不思議に思う。たぶん、不思議に思うのは、想像もしていなかったからだけではない。
猫について、だれにも、夫にも言っていないある思い出がある。
大学生のときのことだ。先輩が、あるたのみごとをしてきた。私にはずいぶん難題と思えるたのみごとだったので、「それを遂行したら、見返りとして、いったい何をしてくれるのか」と私は訊いた。「なんでもほしいものをやる」と先輩は言った。そのとき私は「じゃあアメリカン・ショートヘアを下さい」と言った。当然ながら猫種に疎い私は、たまたまどこかで聞いた猫種を口にしただけで、その猫がどんな模様か、どんな性質か、まったく知らなかった。知っていたのは、ペットショップで買えば高価な猫だという程度だろう。「おう、アメリカン・ショートヘアだな。わかった、買ってやる」と先輩は請け合った。
そのとき本当に猫がほしかったわけではない。昔から犬派だったのだ。でもそんなふうに言ったのは、先輩のたのみごとを遂行するのは無理だ、と思っていたからだ。アメリカン・ショートヘアをくれと言った時点で「そんなの無理でしょ?私も無理」と暗黙の内に伝えていたのである。おう、買ってやると言った先輩も、きっと本当に猫を買うつもりはなかっただろう。
そうして、こんなどうでもいい会話のこともそれきり忘れた。
猫がやってきて、思い出したのである。アメリカン・ショートヘア。あのとき、私が下さいと言った猫種ではないか。・・・
・・・
・・・もしかしたら、先輩に言った言葉を神さまのような人が聞きかじって、二十数年後にふと思い出して、「そうそう、アメショーだったな」と、気まぐれに、猫がうちにくるよう取りはからったのかもしれない。
この話をだれにもしないのは、馬鹿馬鹿しいと思われるだろうからだ。ものごとに意味をつけすぎだと言われそうだからだ。
でも私は信じている。言葉にすると、現実のことになる。言葉にすればすべて実現する、というわけではないが、いくつかのことは本当になる。あのとき私が「フレンチブルドッグを下さい」と言っていたら、きっと今の猫はうちにこなかっただろう。
作家になりたい、と私は小学一年生のときに作文に書いた。・・・いつ作家になろうと思ったかと訊かれて、小学一年のときと答えると、すごい、とよく言われる。でも本当は、七歳のときからずーっと「作家になろう」と思っていたはずがない。・・・十七歳で進路を決めなくてはならないときに、「そういや、作家になりたいんだったな」と思い出した、というのが近いだろう。
アメリカン・ショートヘアの話と種類が違うが、でも私のなかでは根本的なところで同じだ。作文に書いたから作家になった。書いていなければ、なっていない可能性のほうが高かったと私は信じている。