土を編む日々

土を編む日々

 新鮮な野菜の香りが鼻に届くようなエピソードと、美味しそうな野菜のレシピが載った本、気持ちよく読みました。

 

P103

 皿いっぱいに小松菜を敷き詰めたら、生のマッシュルームのスライスとすりおろしたパルミジャーノ・レッジャーノを散らす。レモンを搾りかけ、仕上げに粗塩を散らす。

 葉脈を断たれた小松菜の濃い香り。じゃりっとした塩の舌触り。パルミジャーノの乾いた口溶け。小さく舌を刺すレモンの酸。すべてが口のなかで混ぜ合わされることで調理が完成する。手で和え、舌のうえで転がし、噛むことで生まれるおいしさ。自宅でだからこそ作れる、即興のサラダである。

 

 自分の感覚を信じていなければ、こんな食べ方はできない。

 そう思わせてくれるひとがいた。

 出版社に勤めていた頃、サラダになにをかけるかという話題になったことがあった。他の編集者やライターたちも集まってきて、やれこの有機人参ドレッシングがおいしいとか、あの店のオリジナルを長年愛用しているだとか、ドレッシング談義は思いのほか盛り上がった。そのとき、

「ドレッシング、買ったことないかも」

 先輩が、デスクで原稿を書きながらこう答えた。

「オリーブオイルと塩胡椒と酢で作る。うちはずっとそう。お義母ちゃんもそれが好きだし」

 こう言って指を動かし続ける。

 先輩は配偶者とその母親とも一緒に住んでいると聞いていた。「うち」と「ずっと」の二語の向こうに、安心できるねぐらや温かな食卓といった、確からしいものの形を思った。ふたりの他人と暮らしを築き、サラダをひんぱんに食べていることも、当時二十代前半だった私の目には特別に映った。

 なにより、自分の舌を信じて最小限の調味料でやりくりしているさまが、身軽に感じられたのだった。あのとき抱いた憧れは、今もはっきり覚えている。

 

 私の家にも、もう何年も市販のドレッシングがない。

 サラダを作るときには、いくつかの調味料と季節の柑橘類を見繕い、野菜にかけて、指か菜箸で和える。この小松菜のサラダは、どこか木の実のような甘い香りとほろ苦さが、ただもう、うれしい。栄養価の高さや、ビタミンCと一緒に摂ると吸収率がどうのという話は、あとから頭で味わう情報のひとつだ。

 小松菜はミントと「おしゃべりをしている」という説がある。

 東京理科大学・有村源一郎准教授のチームが、ミントを小松菜の近くに植えると、虫がつきにくくなるという研究結果を二〇一八年に発表した。

 ミントは小松菜に「害虫がきたよ、気をつけて」という情報を伝え、小松菜はミントの香りを感知すると、害虫が自分を食べにきたと思い込み、害虫がお腹を壊すタンパク質を生成しはじめる。ミントのおしゃべりを、小松菜がキャッチするというわけだ。このやりとりは、「立ち聞き」(英語ではeavesdrop)と呼ばれるれっきとした科学用語である。

 小松菜を助けたミントにはメリットはなく、得をするのは小松菜だけ。淘汰の激しい自然界でも、どちらか片方だけが得をする関係性というのは実際にいくつもみられるという。

 試しにうちでも、小松菜の隣にミントの鉢を置いてみた。葉には虫に喰まれた跡はなく、確かに前年より立派である。香りと味わいはまだまだプロによる栽培のようにはいかず、どちらかというとクレソンのようだが、それでも心地よい苦みをまとっている。

 小松菜はどうやってミントの声をつかまえたのか。

 ミントはなぜ小松菜に見返りを求めないのか。

 ひととひとの照らし方、照らされ方と同じように、野菜の生きざまもまた不思議なものである。