自分で名付ける

自分で名付ける

 なんかモヤっと感じていたことを、よくここまで言語化してくれた、と思う本でした。

「制度や『普通』の枠におさまっていないから自由、というのはちょっと違うように思う」「制度のほうが、『普通』の枠を広げたらいいやないか、そっちの『普通』が狭いくせに、こっちにドヤ顔してくんなよ、という気持ち」というところなど・・・

 

P18

 ・・・助産師さんは、・・・

「出産の際、お相手の方はなんとお呼びすればいいですか?パートナーさん?」

 と言った(私の書類は、母親、父親が違う名字なので、結婚していないことは一目瞭然なのだろう)。

 何と呼ぶべきなのか自分でもわからなかったので、

「あ、えっと、なんでもいいです」

 と答えると、彼女はうなずき、何事か書き込んでいた。

(私はいまだに相手をどう呼べばいいのかわからない。家では名前で呼んだり、名字で呼んだりしているが、外で説明する時にいつも逡巡する。助産師さんが言ってくれたみたいな「パートナー」は英語の時は便利だ。もともと限られた英語力を使って話すので、単語や表現の選り好みをしている場合じゃなくなり、何の葛藤もなく使うことができる。通じることイズマイベスト。でも、日本語だとどうも落ち着かない。困って、子どもの父親担当の人、とか、結婚はしていないけど位置づけ的には夫にあたる人、とか、一緒に住んでいる人、とかその時々でまだるっこしいフレーズを生み出していて、それはもう夫でいいんじゃないかとこの前友人にも言われたのだが、どれもしっくりこないのだ。ただ、もし私が結婚していたとしても、しっくりきていない気もする。本人同士は、いちいち相手を夫だの妻だの考えながら生活しているわけではないのだから、人に話す時だけ不便だ。今、書いていても不便なので、本人になんと書かれたいか聞いたところ、「じゃあ、Xで」とのことだったので、この本の中ではXと呼ぶことにする。さらに言うと、自分のことも普段、妻とも母とも思っていない。それと、誰かと暮らしたり、子どもを大切にしたりすることは、そんなに関係ないことのような気がする。今のところ、それらの〝肩書き〟があるからそうしているのではない、実感として。でも外で、たとえば病院などで「お母さん」と呼ばれれば、それは紛れもなく私なので、「はい」と答える。そこに矛盾はない)

 その時、一つ思ったのは、結婚していないから、何か事情があるのだろうとある意味〝深読み〟してくれて、Xをどう呼べばいいか確認してくれたけれど、もし「普通」に結婚していたら、こんなことは聞いてもらえないんだろうな、ということだった。・・・結婚していれば、問題がないとみなされ、定型の呼び方で良いことになってしまうのも少し気になる。

 

P39

 一ヶ月経った頃、区の係の人が子どもの人と私の様子を確認しに家に来た。

 五十代くらいの快活な女性で、子どもの人の検査が終わった後、私の母が別室にいる時に、「お一人で育ててるんですよね?」と聞かれた。「あ、違います、結婚していないだけです」と言うと、「なんでなのか理由を聞いてもいい?」と尋ねられたので、「名字が変わるのが嫌なんです」と答えた。彼女は、「え、本当に、それだけで⁉」と驚いていた。そして、Xというこだわりの強い人がいるので我が家はまだ家具が少ないのだが、リビングを見回した彼女は、ソファーとか棚とかないね、と不思議そうにした後、笑いながら、「なんかこの家、自由だね~」と言って帰っていった。

 彼女に対して嫌な感じは一切受けず、むしろ楽しい時間だったが、でも、私は自由に生きているつもりはなくて、いろいろ窮屈に感じていることのほうが多いし、真面目に生きている。制度や「普通」の枠におさまっていないから自由、というのはちょっと違うように思う。

 自分の、名字を変えたくない、という気持ちを尊重するためには、「普通」を諦めるしかないのが現状だ。制度のほうが、「普通」の枠を広げたらいいやないか、そっちの「普通」が狭いくせに、こっちにドヤ顔してくんなよ、という気持ちでいつもいるし、同性婚など、他のいろいろなケースにもこれが当てはまる。

 その後も、区の健診等に行くと同じような質問をされているが、それ以外は特にまだ実生活で不便を感じていないので、このままでいる。