この辺りは、読みながらいろいろ考えが巡りました。
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Oは社会的には、今の段階では、男の子である。でも、・・・別に、あーこれは男の子だわ、これは男の子でしかないわ、としみじみこっちが思ったりするような行動は、やっぱり特にない。
・・・
外に出ると、やはり、その子が男の子なのか、女の子なのかは、挨拶レベルでよく聞かれる。
スーパーマーケットや商店街で買い物をすると、お店の人たちは親切で、Oに声をかけてくれる。
「男の子なのにかわいいね」
という言葉は何回か聞いたし、肉屋で壁にかかった電車のカレンダーをOがガン見していると、お店の人は、
「女の子かと思ったけど、電車が好きなのはやっぱ男の子だね」
とにこにこ言う。
かわいい、という言葉は、女の子に属しているというイメージがあるらしい。男の子だろうが女の子だろうが、どっちもかわいいでいいと思うのだけど、そうはいかないらしくて、なんだかいつもエクスキューズがついてくる。
確かにOは電車が好きだけど、公園で子どもを連れてきている女性たちと話すと、電車が好きな女の子は結構いる。うちの子はめちゃくちゃ電車が好きで、と言うと、
「あー、うちの妹ちゃんもそうだった」
とさらっと返ってくる。車や電車って別に男の子のものじゃないし、Oは男の子だから電車を好きなわけでもない。ただ好きなだけだ。
そういえば、以前、女の子の親である女性が、
「お人形をぎゅっと抱きしめて、いい子いい子したりしているのを見ると、やっぱり本能って、性差ってあるのかもなって気持ちになる」
と話していて、その時はOがまだ人形も何もわからん、デストロイ!の時期で、人というより小動物みたいだったので、そうなのか、と聞いていたのだけど、現在、Oがぬいぐるみをよしよしとなでたり、ぎゅぎゅっと押し潰さんばかりに抱きしめたりしているのを見て、さては性差じゃないなこれ、と眺めている。考えてみたら、かわいいものを抱きしめたり、大事にしたいのは、誰だって同じだ。
・・・
・・・性役割とかは、散々言われてきているように、つくられたものだなと容易にわかる。何も知らない状態だと、男の子のやること、女の子のやること、なんて関係なくて、ただ楽しいこと、興味のあること、になる。これは男の子用とか女の子用とか、全部大人が勝手に決めていることなんだと、Oといると痛感させられるし、私もすでにそれをやってしまっている。
一般的に男性が料理や化粧に興味を示さないとしたら、それはそれまでの人生で、そうなるようにコースをつくられてきたからだろう。
誘導がなく、料理や化粧に興味がないなら、それはその人がそういう人なだけだが、今の社会の感じだと、誘導があることはまあ明白だ。
私は兵庫県の姫路市で育った。姫路出身の有名な人と言えば、松浦亜弥と高田賢三なのだが、母が昔、何かで見たか読んだかしたらしく高田賢三の子ども時代のことを話してくれたことを覚えている。
高田賢三は姉たちとお人形さんごっこやお人形の服をつくって遊んでいたらしい、やっぱりデザイナーになるような人は小さな頃から違うわ、というような話で、高田賢三が子どもだった昭和の時代を考えれば、確かにそれは珍しいことだったろうし、その話を聞いた私が子どもだった頃も、それは確かに珍しいことだった。私はその話が妙に好きで覚えていたし、人によって違う、と意識するきっかけにもなった。
しかし、世の中は、高田賢三のように自分を貫き通すことができる子どもだけではないだろう(高田賢三自身も、洋裁学校に「男性の入学は認めていない」と断られ、一度は大学に進学している)。そもそも個人差だったところが、社会の働きかけで、否応なく男の子と女の子に分けられ、それを性差とされ、本人たちもそうなんかといつの間にかその区分けに合わせて自分の好みを形成する。そして、その二つのグループのどちらかに収まらないと、異分子扱いになる。