イヤシノウタ

イヤシノウタ(新潮文庫)

 吉本ばななさんのエッセイを読みました。

 ここは、生きる環境ややっていることなど、全然違うけれど(そしてこんなお誘いは来ませんが 笑)、共感しながら読んだところです。

 

P87

  財団とか国連とかエスクァイアとかロスチャイルドとか、そういうとても魅力的な、きっと他の仕事をしていたら一生誘われないような、関わることもないだろう団体からの珍しいことへの誘いは、たいていの場合小説を書くことと最も遠い内容の仕事としてやってくる。これがまた、引っかけ問題のように、期間も一ヶ月だとか一年だとか、人生のある時期を捧げるようになっている。

 権力や体制に反発しているわけではないし、いきがっているのでもない。

 珍しい体験をしたくないわけでもないし、世界のトップクラスの人々との時間を味わってみたくないわけでもない。さらには負け惜しみでもない。

 でも、なんでだか父を思い出すのだ。買い物かごを持って商店街を歩いていた父。海外に一度も行かないで自分の頭の中の闇に深く潜って勉強し続けた父。

 父のようになりたいわけでもない。私はとっても派手好きだからそういう派手で知名度のあがるようなことも好き。

 でも、なんだか素直にそっちに行けない。

 私はただ暮らしたいのだ。洗濯をして、そうじをして、犬や猫の世話をして、子どもと手をつないで歩きたいだけだ。そしてそのくたびれた手で小説を書きたい。

 なんていうことのない日々のありがたみや、それをいつか離れるときの切なさや、そういうことを。

 ・・・

 なんだろう……自分の奥底にあるスケベ心みたいなもの。貪り。自分だけ先に行ってしまってあとからあやまればいい、みたいな感覚?

 それがちらっとでも見えたら、私は私を好きでなくなる。

 そうすると小説が濁る。

 うそじゃない、ほんとうに濁るのだ。

 昔えらく本が売れたときさえ濁らなかったのに。

 ・・・

 他の人には宝になる経験が自分にとっては単なる時間とエネルギーのロスであることがある。

 私は職人、桶を作る。

 いつも同じような桶でも、ふと、あるときいいやつができることがある。

 だれも違いをわかってくれないけれど、自分にはわかる。

「今日はいい桶ができたなあ。家族に見せても『いつもと同じじゃない?』と言われるだけだろうけど、これ、見る人が見たらすぐわかってくれるんだろうなあ。楽しみだなあ。人生であと何回、こういうのが作れるだろうかなあ」と思いながら見上げる空、いい気持ちでビールを一杯。ほどよく家族や友だちとたわいない会話もした。足元には犬や猫のぬくもり。ベッドに入ると、聞こえるのはみんなの寝息。目を閉じたら快い疲れ。星空の下で寝ているような開放感がある。

 私がしたいことは、そういうことだけ。