イタリア人はピッツァ一切れでも盛り上がれる

イタリア人はピッツァ一切れでも盛り上がれる ローマ発 人生を100%楽しむ生き方

 なんか楽しそう?と思って手に取りました。

 こちらは、そういうこと大事だな~と思った話です。

 

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 うちの姪っ子たちに限らず、若い人たちの受け答えを聞いていると、彼らが何の根拠もなく、見えない誰か(あるいは何か)に遠慮して話しているような気がしてならない。

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「私はこれが好き」、「俺はこれが欲しい」という意思表示をすることは、「自分自身の嗜好や、目的を明らかにすること」でもある。「だいじょうぶ」を言い続けているうちに自分の好みや欲しいものがわからなくなることは、一人ひとりの人間にとって「全然、大丈夫じゃない!」事態を招きかねない。これは重大事だと思う。

「イエスか、ノーか」の判断をすることは、自分自身の価値観を作り上げていく過程では、とても大事なことだと私は考えている。

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 私も、イタリア語を学び始めたばかりの頃は、この「スィ、オ、ノ?(イエスかノーか)」という質問の洗礼にあった。・・・

 実を言えば私自身、その頃は「イエスかノーか」という自分の中の価値観がまったく定まっていなかったので、その問いかけが時にとてもうっとうしく、答えるのが面倒くさくもあった。しかしながらイタリア人が相手だと、曖昧な答え方をするといっそう興味をそそることになる。細かいディテールを説明するボキャブラリーもなかったので、ともかく「スィ」か「ノ」で答えるように心がけた。

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 ・・・日常の中のあらゆるシーンで「スィ」「ノ」と答える日々が続いた。3ヶ月が過ぎた頃、一人で街を歩いている時に通りがかった靴屋のショーウィンドウで、オレンジと赤の可愛い靴が目に留まった。

(こういう靴、大好き。欲しい!)

 とっさに自分の中に湧き上がった声に、一番驚いたのは私自身だった。えっ?私って、こんなド派手な靴を好む人間だったっけ?と。それは私にとってすごく嬉しい驚きだった。よく考えてみれば、それまでの人生で私は、黒とダークブラウン以外の靴を履いたことがなかった。恐らく、「靴はどんな服にも合う黒が無難」という無意識の判断がなされていたのだと思う。でもそれは、「好きなのか、嫌いなのか」という自分の個性にかかわる判断ではなかった。私の中に、オレンジと赤の靴を欲しがる私がいて、多分、それが本当の私なのだろうという発見は、自分にとって革命にも等しいものだった。

 その日から、「スィ・ノ」を自分自身に問うことは、日常的なゲームになった。

 普段の会話で、自分が「スィ・ノ」で答えるたびに、その答えを意識するようになった。すると、「あ、私ってこれ苦手だったんだ」とか、「今、まさにこれが欲しかったのよね」とか、日頃は意識していなかった自分の本当の姿が浮き彫りになってきた。一人で街を歩く時、ショッピングへ行く時にも、自分が見聞きする物事に対する自分の「スィ・ノ」の声に、努めて耳を傾けるようにした。すると、玉ねぎの皮が一枚ずつ剥けていくように、私の知らなかった私の本性が、どんどん明らかになっていった。と同時に、自分が以前よりも楽に呼吸していることに気がついた。自分自身をよく知り、自分の価値観を普段から明確にするということは、「素のままの私で生きる」ということにつながるのでは?そんなふうに考えるようになった。

 

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 以前、バーゲンの時期にショッピングセンターに行った時、大好きなアクセサリーブランドのショップを覗いた。セールとはいえもともと高価な商品なので、とても買えないことはわかっていた。ショーウィンドウをじっと眺めていた私に、店員のお姉ちゃんが「いらっしゃいよ」と手招きした。

「ありがとう。でも、今日は買えないから」と断ろうとすると、お姉ちゃんは、「何言ってるの。見るだけならタダでしょ?試しにつけてみるのもタダよ。せっかくここまで来たんだから、いろいろ見ていって」

 お姉ちゃんの勢いに押されて店へ入り、それから二人で、「これもつけてみれば?」「ああ、あれも素敵ね」と、さんざん盛り上がって素敵なアクセサリーの数々を身につけた。そろそろ引き上げようと思い、「こんなにいろいろ見せてもらったのに、買えなくてごめんね」と言うと、お姉ちゃんは「とんでもない。こんな高いもの、私だって買えないわ。でも、楽しかった。また遊びに来てね」と満面の笑みで手を振ってくれた。

 お姉ちゃんの接客は、決して「礼儀正しい」とはいえない。けれど私はとても嬉しかったし、「親切にしてもらった」という満足感でいっぱいだった。マニュアル通りのサーヴィスだったら、こんな思いはできなかっただろう。・・・親切にされた時に客が感じる嬉しさや喜びは、どんなに完璧なマニュアル対応のサーヴィスでも到底感じることはできないと思う。