いまいる場所で

数学の贈り物

 印象に残った文章です。

 

P102

 昨日、息子と一緒に公園に出かけた。

「こうえーん⁉」と懇願する息子に応えて「よし、行こう!」と言えることが、どれだけありがたいことか、いま、しみじみと実感している。

 昨年の大晦日から今年にかけて、息子が東京の病院に入院した。最初の四日間は絶飲・絶食が続いたため、「おちゃ?」「えびじゅ(おみず)?」と心細い声で泣く彼を、ただひたすらなだめようとすることしかできなかった。

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 道は邇きに在り、而るに諸を遠きに求む。

 事は易きに在り、而るに之を難きに求む。

 これは、『孟子』のなかの一節である。本当に大切なものは、すぐ近くにある。それを遠ざけ、ことさらに難しくしているのは、僕たち自身の意識なのだ。

「こうえーん⁉」と言われて公園に行ける。「とって」と言われて取ってあげることができる。ご飯を食べることができ、水を飲むことができる。そんなあたりまえで簡単なことが、どれほどありがたいことかを、いま強く実感している。

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 昨年、僕が興奮したニュースの一つは、重力波による中性子星合体イベントの観測だった。世界中の知を結集し、目に見えない時空のさざなみを捉え、そこから金やプラチナなどの重元素の成立の起源に迫る発見が得られた。人類の宇宙観が、これからめざましく変容していくと思うと胸が高鳴る。

 だが、手放しには熱狂できない。・・・

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 自然科学のめざましい成果に胸を躍らせるとともに、どこかで僕が警戒心を覚えているのも、科学の「最先端」に熱狂する背景に、何か非常に偏った「価値」の判断が、潜在しているように思えるからである。

 重力波の観測は、間違いなく偉大な科学的成果だ。それ自体は素晴らしいことである。だが、そうした「最先端」にだけ、価値ある学問があるわけではない。マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel,1980-)が著書『なぜ世界は存在しないのか』でくり返し口をすっぱくして語っているように、そもそも「宇宙」は「世界」ではない。「宇宙」とは、あくまで物理学の研究領域のことにすぎない。そこには、公園もなければ、親子の関係もない。だから、「宇宙」について研究することは、「すべて」について考えることではない。宇宙は、世界全体(そんなものが存在しないということがガブリエルの主張であるが)よりもはるかに小さい。だが、ビッグ・サイエンスに熱狂する背景には、「宇宙」と「世界」を混同するのに似た誤解がどこかに紛れ込んでいるのではないか。重力波についての研究が、たとえば仏教史や芭蕉の文学にまつわる研究より「先端」だと考えるべき理由はないのだ。科学の成果は喜ばしいが、間違った方向に過大評価しないように気をつけなければならない。

 肝心なことは、知の本質に最も肉薄した特権的な場所など、どこにも存在しないということである。「最先端」だけが価値ある場所ではない。「研究するとは、情熱をもって物事を問うこと以上のものでも以下のものでもない」と言ったのは数学者のアレクサンドル・グロタンディーク(Alexander Grothendieck 1928-2014)だ。すべての人が、いまある場所で、「情熱をもって物事を問う」ことこそが、学問の生命である。

 何気なく息子と公園に出かけられることを、いまは奇跡のようにありがたいと感じる。だが、振り返ってみれば、家族で過ごした病院の日々もまた、かけがえのない、大切な時間であった。いつか水を飲みたい、公園に行きたいとみんなで願いながら過ごした、すべての時間に真実があった。

 遠く、難しい場所にだけ価値があるのではない。すべての人が、いまいる場所で、大切なものをすでに与えられている。

 もちろん、そのことに気づくことは簡単ではない。

 僕は、「最先端」を切り拓く偉大な英雄にはなれないし、なるつもりもない。

 その代わり、できることなら、だれもがいまいるその場所で、すでに英雄なのだと気づくことができるような、そういう世界をつくっていきたい。