天文学と聖書

シンクロニシティ 科学と非科学の間に――画期的な科学の歴史書。

 哲学と占星術と聖書と天文学と・・・そんな経緯で今に至ったのですね・・・と興味深く読みました。

 

P113

 ケプラーは、根気強く丹念に観察記録を分析し、太陽から見た火星の位置の算定に努めたところ、驚いたことに、観測位置をつなげると完全な円ではなく楕円が現れたのである。何世紀も受け継がれてきたピタゴラスプラトンアリストテレスの遺産を差し置いて、目下のデータが語る言葉をケプラーは素直に受け取った。歴代の偉人たちによる誤った導きに屈しなかったのである。そして、楕円の2つの焦点のうちの1つに太陽を据え、火星の軌道モデルを詳細に記述した。すると従来の円軌道による惑星体系図と異なり、実測値と一致したのである。その軌道モデルは火星以外のすべての惑星についても観測値と符合した。のちに惑星軌道を楕円とする原理は「ケプラーの第一法則」と呼ばれるようになった。

 ・・・

 ケプラーは『新天文学』を著す頃、理論構築における自らの手法が従来の学者たちとは全く違うことをすでに認識していた。そのため自身の研究の経緯をすべて記録に残すことが科学者としての責務だと考える。当初の誤った発想に始まり、持論の否定を経て、革新的な結論を導くまでの全容を、である。『新天文学』の序論でこう記している。

 

「肝腎なのは、どのようにしたら、いちばん近道を通ってこれから語る事柄の理解へと読者を導くかということだけでなく、とりわけ著者の私が、どのような論拠や紆余曲折あるいは偶然の機会によって初めてここに言うような理解に至ったか、ということである。われわれは、クリストフォルス・コロンブスやマゼランやポルトガル人たちが、アメリカや太平洋、アフリカ周航路を発見するまでに犯した数々の過ちを物語るのを容認するだけでなく、読書の大きな楽しみがなくなるから、そういう話の省略さえ許そうとしない以上、私も読者の同様の関心に応えて本書で同じやり方をしても悪くはなかろう。」

(訳注:『新天文学』(ヨハネス・ケプラー著、岸本良彦訳、工作舎、2013年)63頁より引用)

 

 ケプラーの科学的手法とは対照的に、他の学者たちは当時、神秘主義の思想に拘泥していた。たとえば、イギリスの医師であり哲学者のロバート・フラッドは、聖書を精読した上で、新プラトン主義の初期の思想とヘルメス思想を分析することが、宇宙の真理への近道だと主張している。そして、実際にそのような手法で、独自の太陽系図を構築。地球と太陽をそれぞれの領域の中心とし、そこへ神に相当するもう1つの中心を加え、3つの中心が太陽系を成すと唱えた。またピタゴラスの思想を取り入れ、天球同士の距離は音程に基づくとした。

 1617~1621年に刊行されたフラッドの著書『両宇宙誌』には、その宇宙像を表現する数多くの版画が掲載されている。ケプラーはフラッドの宇宙像に対し、観測値との整合性に欠けると猛烈に批判した。

 ・・・

 物理学の進展に大きく貢献したガリレオだったが、天文学において未知の領域を切り拓いた功績はそれをも上回る偉業といえた。ケプラーの示した宇宙像を補正しつつ、天文学史に刻んだ系譜は今なお輝きを放っている。久遠の昔にプルタルコス(64頁)などが想像を巡らせた月の地形については、月面上に山のあることを観測ではじめて確認して明答。また金星の満ち欠けを発見したことで、金星が太陽の周りを公転する事実を裏付け、コペルニクスの地動説を立証した。

 天の川がガス状の星雲ではなく、お互いに距離を隔てた夥しい数の星で構成されていることが明らかにされたのも彼の実績の1つである。太陽の黒点土星の環、木星の四大衛星も発見した。なお木星の四大衛星を、パトロンであるメディチ家に敬意を表して「メディチの星々」と名付けた。惑星を周回する天体に関してはケプラーがのちに「衛星」と命名した。

 1615年、ガリレオはクリスティーナ大公妃宛ての手紙の中で、自らの研究の成果について詳しく説明している。強力な後ろ盾であるメディチ家天文学上の画期的な発見を披露することで、自身の宇宙論に対する批判をかわす狙いがあった。諸々の発見を紹介しながら、コペルニクスの唱えた地動説の正当性を説き、地球は24時間に1回自転すると強く主張した。地球から他の星までの距離の遠さを考えると、地球以外の星が24時間に1回、地球を公転するとなると、その速さは考えられないほどのスピードになるからだ。なお、太陽が立ち止まり、逆行するとの聖書の一節については、聖書の記述は人間に道徳的教訓を与えながらも、科学を断定するものではないと記した。加えて、自然もまた神の創造物で、望遠鏡などの機器を通してその記述を読むことができる、とも。したがって、科学的発見はありのまま認知され、聖書の新たな解釈のために使われるべきであり、聖書の既存の解釈を担保するために科学的発見を曲解すべきではない、と訴えたのである。科学的発見をそのまま受け止める意義を説いたガリレオのメッセージはやがて、数百年の時を経て教会が公の見解として採用するに至る。しかし、当時のキリスト教正統派にとっては、あまりにも早すぎる進言だった。

 ・・・

 ガリレオが慎重な姿勢を取るのももっともだった。ローマの異端審問所は当時、恐るべき権力を誇示していた。・・・コペルニクスの著作『天球の回転について』の取り締まり以降、地動説は聖書の教えに反するとして、審問所は地動説を支持する思想に目を光らせていた。

 その犠牲となったのが、イタリアの神学者ジョルダーノ・ブルーノである。1600年、ブルーノは異端審問所により異端と審判され、死刑判決が言い渡された後、ローマのカンポ・デ・フィオーリ広場で火刑に処された。なかでも冒瀆とされた思想は、宇宙には無限の星があり、知性を有する存在を抱きながら、それぞれの軌道を描いて独自の世界を構成する、という彼の宇宙観だった。ピタゴラス学派に大きな影響を受け、コペルニクスを強く支持したブルーノは、太陽を中心とする太陽系図を根拠に地球を特別視しなかった。むしろ、それぞれ特徴の異なる多数の惑星の1つに過ぎないと認識していたのである。したがって、太陽系で見られる現象は単に太陽系に限られるものではなく、宇宙の至る所で繰り広げられると分析していた。・・・

 そして悲しいかな、周到なガリレオにも累が及んだ。彼が偏りなく描いたはずの『天文対話』の3人の会話内容が、教会当局の精査により、コペルニクスの視点が尊重され、他の見解が卑下されているとみなされたのだ。1633年2月、ローマの異端審問所に召喚されたガリレオは有罪と判決された。・・・

 ・・・

 1642年にガリレオが亡くなった後も、彼の残した実績は科学の進展に大きな影響を及ぼし、よき指標となった。特に、聖典の解釈よりも実際の観察に重きが置かれるようになったのはガリレオの功績である。・・・

 ・・・ガリレオは光速を特定できなかったが、光速値を導くきっかけとなったのは、見事にも、木星衛星の「天空の時計」としての価値を見抜いた彼の洞察力だった。巨大な木星を回る衛星の軌道は地球から見て正確な規則性を有する。そのため、時間ごとの衛生の位置を望遠鏡で観測して詳細に記録すべき、つまり、衛星の時刻表をつくるべきだとガリレオは提案したのである。そうすることで「天空の時計」ができ上がり、太陽の位置に戻づく地上の時計と照合できる。その2つの時計を比較すれば、その場所の経度が簡単に求められ、ナビゲーションとして活用できる可能性があった(訳注:携帯電話などのない当時において、遠隔地で同時にそれぞれの時刻を確認することは困難だった。そのため、2地点間の時間差がわからず、経度の測定が難航。大航海時代で覇権を争っていた欧州列国は、こぞって経度の測定に懸賞金をかけていた)。