柔軟さ

数学の贈り物

 この辺りはだいぶスピードを落として読みました(;^_^A

 たまにはいつもと違う頭を使うのもいいなぁと(笑)。

 

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 先日、息子の幼稚園の体験入園に出かけてきた。動物のぬいぐるみを手に童謡を歌う先生たちの方を、じっと大人しく座って見つめる子どもたちのなかで、息子は、部屋中を駆け回り、しまいには先生の前へゴミ箱を持って、嬉々としてダイブしていた。彼は明らかに、期待されているはずの規範から逸脱した行動をしていた。僕はその場で、彼を叱るべきか迷った。

 守ることもできれば、破ることもできる「規範」に従って人間は社会を営む。同じ規範に、尊ぶべき「英知(wisdom)」を見るか、乗り越えていくべき「偏見(bias)」を見るかで、現実はかなり違って見える。子育てをしていると、英知と偏見の線引きの難しさに、何度も直面することになる。

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 現代は自明視されていた様々な規範が、音を立てて壊れていく時代だ。規範には知恵と偏見の両面があり、実際には、線引きが画然とできないことが多い。規範が比較的安定しているうちは、それを知恵として尊び、共同で支えることで、社会の予測可能性を保つことができる。ところが、規範が高速で変容していくいま、大人しく規範を受容できる従順さよりも、規範を知恵として見る視点と、偏見とみなす観点を、自在に切り替えることのできる柔軟さの方が求められる。同じルールを保守すべきと頑なに拘るのでもなく、悪しき思い込みだと馬鹿にするのでもなく、見方を臨機応変に切り替えながら、複数の現実を並行して生きていく力が必要とされているのではないだろうか。一つだけの物語を信じることができた時代より、不確かで、知的負荷の大きな時代を僕たちは生きている。

 不確かな時代は、いつも恐怖を煽る言説が蔓延る。しかし、「パニクるのではなく戸惑え」と、『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari,1976-)は近著『二十一世紀のための二十一のレッスン』(未邦訳。原題は"21 lessons for the 21st century")のなかで忠告している。なぜなら、不確かな未来を恐れてパニックに陥ることは、不確かな未来は「悪い」未来であると、決めつける傲慢さの裏返しだからだ。「戸惑い(bewilderment)」は「パニック」よりも謙虚なのである。「恐ろしい未来がくる!」と思考停止で叫ぶよりも、「何が起きてるのかさっぱりだ」と困惑しながら、考え続けることの方が前向きだ。

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 こんな時代に、子どもにどういう教育を受けさせるべきかと、同世代の子を持つ親に聞かれることがある。僕が思うに、「子どもに教育を受けさせる」という発想を捨てることこそ、まず一番にやるべきことではないだろうか。

「子どもに教育を受けさせる」というとき、どこかで自分は「学び終わって」いる側で、子がこれから「学ぶ」時代に突入するのだという考えが頭にあるのではないか。しかし、制度や規範が流動化している現代において、学びが終わるということはない。学ぶことは安定した大地の上にピラミッドを建設することより、どちらかといえば、荒波の上で、サーフボードを操縦し続けることに似ている。絶えず重心と姿勢を調整しながら、動き続け、考え続けないといけないのである。足場を固定し、人生の序盤で蓄えた知識でやりくりしていくことができるほど、世界はもう単純ではない。

 

 私は研究者(investigator)である。私は探りを入れる。私は特定の観点を持たない。(……)探求者(explorer)はまったく首尾一貫していない。いつどの瞬間に自分が驚くべき発見をするのか、彼は決して知らない。

 

 これはマーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan 1911-1980)の言葉を編んだアンソロジーマクルーハン―ホット&クール』(原題は"McLuhan:Hot&Cool")に、本人が寄せた文の一節である。特定の観点から世界を見晴らし、首尾一貫した物語を構築するのではなく、全貌を把握できない未知の世界に自らを投げ込み、探りを入れる。彼は自分が、その意味での「研究者(investigator)」であると宣言するのだ。 

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 人はすべて、意味の確定していない未知なる世界に投げ込まれた存在である。大人も、子どもも、「いつどの瞬間に自分が驚くべき発見をするのか」知らない「研究者」として生きることができる。僕ができることは、子どもにどのような教育を受けさせるべきか悩むことではない。子どもに自分の「知識」を授けることでもない。ただ、彼らの手を引き、ともに同じ「探求者」として、未知に飛び込み、戸惑いながら、この圧倒的に不思議な世界に「探りを入れ」続けていくことだけである。