同じ世界が違って見える

隠居生活10年目 不安は9割捨てました

 この辺りも印象に残りました。

 

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 隠居生活をはじめてからというもの、必要な分だけ働き、消費や人付き合いを極力制限して生きていたんですが、この生き方の特徴は、毎日、とくに何も起こらないってことなんです。

 とはいえ、少しずつ変化はあるので、年に数回、単発のバイトの誘いを受けるようになりました。内容は、カフェやギャラリーでのピアノ演奏や、ピアノの講師、庭仕事、雑誌のライティングなどです。

 その頃にはもう、最低限自分ひとりが生きていくのに必要なお金はいつでも足りていたし、それ以上ムリして働かなくてもよかったんです。

 でも、お金のためではなく、「楽しそう」「おもしろそう」「それなら得意」という気持ちでなら、引き受けてもいいかな、と思うようになりました。不特定多数の知らない人とのコミュニケーションは苦手なので、接客系の仕事だけは断りましたが、そのほかで気が向いたものは一通りやってみました。

 中には謝礼はお金ではなく、料理や占いなど、バイトを頼んできた友人の得意なことだったりもしましたが、お金のためではないので、そこはあまり問題にはならなかった。それ以上に、「楽しかった」という体験や、達成感自体が報酬のようなところがある。

 そもそも得意ってのはどういうことかっていうと、人よりも簡単にできるということなんですよね。

 私はギャラリーくらいなら飽きずに延々ピアノを弾いていられるし、ライティングの仕事なんて、急な締め切りで2~3日外に出られなくても、もともと引きこもり気質なので全然平気です。

 あるとき、「3日間缶詰めで書き続けるなんて、よくできるよね」と言われ、「え、他の人はできないの?」と驚いたことがありました。

 ってことはですよ、逆に言えば、私にとってはお金を払ってでも他人にやってもらいたいくらい苦手なことなのに、他人にとっては屁でもないことで、それが誰かの仕事になっているのかもしれない。そのほうが、苦手な人にイヤイヤやってもらうよりも各方面に負担が少ないし、みんながラクなんだとしたら……。

 それって最高じゃないですか。

 なんだか、久々に外に出るようになったら、目の前に見えている世界のありようが、どうも私が記憶していたものと違うな、と思うことが増えてきました。

 この世界って、苦手なことやイヤなことでも、我慢してやんないといけないんじゃなかったっけ?

 なのに仕事を頼まれても、やりたくないことは拒否して、私が好きなこと、できること、得意なことだけえり好みしまくってるのに、誰にも怒られないし、イヤな顔もされない。

 ・・・

 ・・・私が隠居してる間に世界がイメチェンでもしたのか?

 それで思ったんですけど。

 イメチェンしたんじゃなくて、世界は本来そういう場所で、私の認識のほうがゆがんでいただけだとしたら、いつから私の認識はおかしくなったのか。

 私たちはいつも他人と比べられ、評価されることから逃れられず、おかしいと思うことでも自分はどうすることもできないのだと思い込まされ、・・・という記憶は、もしかして家庭や学校などで後天的に身についたものだったんじゃないか。

 ・・・最低限やるべきことだけやったら、あとは縮こまってないで、自由にしていいのかもしれない。

 ・・・

 ただ、ネガティブな気持ちからではなく、よろこびから外の世界へのドアを開けるとき、世界のほうはその行動を受け入れる準備がいつもできている。そして、イヤになったら自分だけの小さな世界にいつだって戻ることもできる。

 今まで世間の誰かの都合のいいように、自分を生きることをあきらめるように記憶を塗り固められてしまっていただけで、世界が変わったというよりも、それは本来、ただそれだけ自由な場所だったのかもしれない。