社会をちょっと変えてみた

社会をちょっと変えてみた――ふつうの人が政治を動かした七つの物語

 そんなものだと諦めずに、一歩でも、1ミリでも動き出すことが大事なんだな、ほって置かないことが本当の優しさなのか・・・と、我が身を振り返って色々考えました。

 

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 中西さんは一九四四年、中国の旧満州で生まれた。日本に引き揚げてきた後は、神戸の芦屋で育つ。父親は会社を経営していた。

「わりとハイソサエティな暮らしをしていたと思うね。父親もボーイスカウトの隊長をしていて、一緒にキャンプをしたりしてね。自活能力がそういうところで育っていたのかもしれないね」

 大学進学では東京に出てきて、上智へ。江の島のハーバーにヨットを持ち、夏はクルーズ、冬はスキー。一九六〇年代のことだ。「若大将」を地でいく・・・。

 そんな生活が一変したのは、二一歳、大学三年生の時。交通事故だった。

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 オートバイで江の島に行く途中、ガードレールに激突、首の骨を折った。

「自爆したのね。そのまま七年間、寝たきりになったからね」

 頚髄を損傷。医師からは三か月で死ぬ、と言われた。

 そのとき、中西さんが何を思ったか。著書から引用しよう。

「私は事故で受傷した後、とことん人間存在を否定されるところまで落ち込んだから。自分の存在意義って何だろう。社会の中で、なんで俺が生きていなきゃいけないのか、存在理由を求めたんだ」

「とにかく今は寝たきりだから行動できないのはしょうがない。それならあらゆる古今東西の知識を自分の中に取り込もうと、哲学から文学、芸術から音楽、建築など、人類が最高に至福のものとしている尊い遺産をそしてこの社会を理解できるようになってから、死にたいと思った。それでなければ生きた意味がないと考えた」(『自立生活運動史』より)

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 儒教インド哲学古代エジプトギリシャ古典、数学……。車椅子にのって動けるようになるまでの七年間。とにかく読んだ。

 再び引用する。

「全部読んでくると、人類共通に考えてきた、人間とは何かという課題に僕は今、直面しているのだと思えた。直面しているのであれば、直面して、自分なりに生きる意味を見出していくことが必要なのではないか」

 そしてこう思った。

「これまでは行動して経験を増すことが人生を豊かにすることだと思っていたが、七年間も本を読み続けられる人生に変わったんだから、もうけもんだという感じで障害をポジティブに受け止めていた」

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「静止したベッドの上でずっといるということは、世の中の流れを客観的にずっと見ていける。だから、あまり巻き込まれないで自分の立ち位置を保持し続けられる。七年間それを経験すると、社会って割に簡単に変わるものだとか、リーダーといっても普通の人と同じで、革命を起こしたり社会を変えたりする人たちの伝記を読んでみて、そんなに普通と変わるわけじゃない」

「要するに、時間があるというのはすごい有利な立場を持っている。お金がないにしても、人生の意味というのは、そこはもっと自由に考えられるところかなと思います。だから、ゼロっていうことは誰の人生にもあり得ない」

 中西さんはきっと、考えに考え抜いて、ベッドの上で、ある意味で悟りを開いたのだ。

 無意味な人生なんてものはない。ものは考えようによっていかようにも受け止められる。

 ・・・

 七年たって、中西さんは車椅子にのれるようになった。状態は、一言でいうと四肢麻痺。足は動かない。腕は肩まで上がるが、指は利かない。でも、電動車椅子は自力で動かせる。

 読みまくった本のなかに、アメリカの障害者に関する雑誌や本もあった。アメリカでは障害者も施設を出て介助を受けながら地域で暮らしているということがわかった。感銘を受け、自分で翻訳したものもある。

 日本でもそういう生き方をしたいと考えた。障害者が自立して地域で暮らす。

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 ・・・仲間と一緒にそういう暮らしをしていきたいと思い、障害者の通所訓練施設があり、障害者たちの活動もさかんだった八王子に、中西さんは越した。三〇代後半だった。

 そこで初めて、脳性まひなど、いろいろな障害者たちとも交流を持つ。

「それまでは、自分のような頸髄損傷しか知らなかった。ああ、こんな障害もあるんだ。我々よりもっと大変な人がいて、これは支援してあげなきゃ。我々が支援する側だ、みたいに思った」