この辺りのことは、初めて知って驚きました。
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夕張の財政破綻・病院閉鎖前後のデータを比較したところ、次のようなことがわかった。
▼夕張市の総病床数が171床から19床に激減した。
▼高齢化率は50%を超えた(市としては日本一)。
▼それにもかかわらず、夕張市民の総死亡率は変わらなかった。
▼病死は減った。その代わりに老衰死が増えた。
▼救急出動が半減した。
▼1人あたり高齢者医療費も減った。
つまり、財政破綻して病院がなくなった結果、夕張に起こったことは決して悪いことばかりではなかったのである。むしろ、これから超高齢化社会を迎えつつある日本の道標と言ってもいいようなデータが出ている。
その下地には以下の3つの要因があるのではないかと思っている。
①天命を受け入れる市民の意識
②高齢者の生活を支える医療・介護の構築
③高齢者の生活を支える「きずな貯金」
ひとつずつ見ていくことにしよう。
①天命を受け入れる市民の意識
・・・いたずらに寿命を延ばすことや、そのために命の終わりを医療におまかせしてしまうことを良しとせず、人生の最期まで人生の決定権・主導権を自分で握っている高齢者が夕張には本当に多かった。
それは、「そういう決断をしてもいいし、しなくてもいい、どちらでもいいけど、その場合はしっかりと最期まで生活を支えるよ」という医療体制が構築されたからでもある。
②高齢者の生活を支える医療・介護の構築
財政破綻の夕張に赴いた村上先生は、それまでの総合病院で行われていた急性期医療の世界から脱却し、・・・「高齢者の生活を支える医療・介護」に特化した。
具体的には、それまでの夕張にはなかった24時間対応の在宅医療・訪問看護を創設し、さらに訪問歯科医療・訪問リハビリも導入した。介護の面でも24時間随時対応の定期巡回・随時対応型訪問介護を構築した。
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・・・こうした医療の変革で、手術や救急医療などの急性期医療の部分は札幌などの総合病院にお願いすることにはなった。しかし一方で、こうして高齢者の生活を支える医療に特化したことで、不思議なことに救急車の搬送件数は半減したのだ。
なぜだろうか。
じつは高齢者が陥るさまざまな病態は、たとえ病院や急性期医療にかかってもほとんどは回復しない。
夕張においては、それが老化現象なのだから仕方がないと市民の側に覚悟ができていたように思う。・・・
・・・そもそも救急車というものは「命を助けてくれ」という願いのもとに呼ばれるべきものだ。・・・
彼らの願いは最期まで自宅でいきいきと生ききることであって、救急車を呼んで、1日でも長く生きることではない。病院に搬送されたらもう二度と家には戻れないかもしれないこともわかっている。
だからこそ、彼らが呼ぶのはまず訪問看護だ。・・・
ただ、これは結果論である。・・・真摯に高齢者の人生や生活に寄り添って支えているうちに、たまたま統計を取ってみたら救急搬送件数も医療費も減っていたということなのだ。
また、統計を取ってみてわかったのは総合病院がなくなり、急性期医療が後退したにもかかわらず、市民の総死亡率は変わらなかった、ということだった。
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③高齢者の生活を支える「きずな貯金」
第1章、土喰ミツエさん・・・のケースで紹介したが、地域の人を地域の人たちが支え合う良好な人間関係があるということもこれらの基礎に位置する重要な要素である。
この人間関係を私は「きずな貯金」と呼んでいるが、夕張の住民には明らかにこれがあった。
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東京大学でこの夕張のデータを研究しているとき、私は医師人生2回目の衝撃を受けた。
じつは、なんと医療経済学の世界ではこの疑問はすでに研究しつくされていて、一定の結論が出ているというのだ。
多くの研究の結果、「病院の存在や非存在」と住民の「死亡率(SMR)」のあいだには因果関係がないことがわかっている。
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じつは、日本は人口あたり世界一の病床数を持っている。これは米英の約5倍もの数だ。また、CT/MRIの人口あたりの保有数も世界一で、これらは米英の約10倍だ。外来受診も世界2位である。日本はそれほど医療の供給量が多い国なのだ。
しかし、それにもかかわらず、それは国民の健康度にはなんの関係もない。・・・
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その後、私はいろいろな医療の姿を学んだ。その中でもヨーロッパ(特にイギリス)の「家庭医療」と宇沢弘文先生の「社会的共通資本」には非常に感銘を受けた。
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この家庭医療(プライマリ・ケア)は、ヨーロッパでは当たり前に各地域に配備されていて、・・・日本よりも病院・病床が非常に少ない代わりに、こうした地域密着の医療が根付いているのだ。