徘徊か散歩か

うらやましい孤独死

 こういうケースもある、ああいうケースもある、と教えてもらえることで、自分なりの判断の軸ができていく気がしました。

 

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 夕張で私は衝撃的光景の数々を目にすることになった。

 時田さんは80代で重度認知症のおばあちゃん。

 今のじぶんのことさえもほぼわかっていないが、足腰がしっかりしているから毎日徘徊する。もし都市部に住んでいたら、家族もお役所も「まず在宅生活継続は無理」と判断し、施設入所を勧めるであろう。ふつうに考えれば介護も見守りも大変だ。

 お子さんたちは遠方にお住まいで、たまに帰ってきては時田さんの様子を心配していた。

 それでも、時田さんは自宅で独居していた。そして驚くべきことに、昔から続いている小さな商店を変わらず毎日営業していたのだ。さらに雪が降れば自宅の前だけでなく、スコップを片手に近所中雪かきして回っていた。

 時田さんは「今のこと」「今日食べたご飯」なんかはすぐに忘れてしまう。しかし、子どものころからやっていた「雪かき」や「店番」、昔から歩きなれた近所の道などはしっかりと覚えていたのである。

 そんな時田さんを、地域の人たちも医療・介護の関係者たちも「本人が困っていないならそれでもいいよね」くらいの軽い気持ちで見守っていた。

 もちろん、みんな、彼女が認知症であることくらい百も承知。それでも彼女を「認知症のおばあさん」としてではなく、「昔からお世話になっている時田さん」として見ていた。だからこそ徘徊していてもなんとなく見守ってくれていたのだ。

 当の本人もあまり困っている感じはなく、とても落ち着いていた。都会では大問題になる徘徊が、私にはただの散歩のように見えた。

 ・・・

 そんなとき、私はある大きな失敗を経験した。

 ・・・

 小野さんは慢性の肝臓病で長く外来に通われていた夕張の80代のおばあさんだった。

 ・・・

 そんなある日、小野さんの病気が急に悪化した。それまでは元気に畑にも出て、外来にも通われていたのに、顔色は黄色くなり、家で寝込んでいるというのだ。

 私は往診し、入院を勧めた。根本的な治療法はないとはいえ、・・・つらい症状や黄疸を取れる可能性は十分にあるからだ。

 しかし、小野さんは家にいたいと言う。隣にいる旦那さんは黙っている。とりあえずその日は採血だけをして帰った。

 ・・・血液を検査に出すと、案の定、数値は急上昇していた。どう考えても命の危険さえあるレベルだ。

「このまま放ってはおけない!」

 私はすぐさま小野さんの家に行き、札幌の大きな病院で検査・治療してもらうことを提案し、半ば強引に救急車に小野さんを乗せて札幌の総合病院に救急搬送してもらった。小野さんの命を救うために必死だった。

 その1ヵ月後、残念ながら小野さんが札幌の病院で亡くなったと聞いた。

 それを伝えてくれたのは彼女の旦那さんだった。旦那さんがそのとき言った言葉は、私にとって一生忘れられないものとなった。

「あいつは札幌の病院で最後の最後まで、夕張に帰りたいって言っていた。家にいたときから、もう自分の命のことなんてとっくにわかっていたんだ。だから家でもつらいとも苦しいとも言わなかった。『助けてくれ』なんて一言も言わなかっただろ?どうして本人の気持ちを聞いてくれなかったんだ?どうして最期まで夕張の家で診てくれなかったんだ?」

 私は脳天を撃ち抜かれたような衝撃を覚えた。

 ・・・

 そうなのだ。私は患者さんの思いを何一つ聞いていなかったのである。

 いや、言い訳はいくらでもできる。だって、私の判断は医師としては間違っていなかったのだから。

 ・・・

 しかし、今の私は、そのときの自分が根本的に間違っていたと断言できる。

 ・・・

 われわれ医師は現代の先進医療などを使って多くの命を救うことができる。だからこそ、医療従事者の判断は時としてその他すべての意見を消し去ってしまうくらい大きな力を持つのだ。小野さんのケースがまさにそれだ。

 しかし、患者さんの人生は患者さん本人のものなのだ。

 ・・・

 この大失敗は、私の医師人生の価値観を大きく変えた。

 ・・・以来、私は何より先にまず本人の思いを聞くことに最大限の努力をするようになった。