こちらは「それは虫の声が大きい人と小さい人だ」という分類、面白かったです(笑)
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映画の試写室に出入りするようになって、もう二十五年くらい経つ。二十五年といったら結構長い歳月だと思う。それなのにいまだに慣れないことがある。それは映画を観終わったあと、出口で配給会社の人から感想を求められることだ。
映画が面白かったら何の問題もないが、つまらなかった時はほんとうに困る。・・・私は気が小さい。あんまり人をガッカリさせたくない。傷つけたくない。
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そんなある日のことです。と言っても、もうザッと二十年近く前か。つまらないだけならまだしも、腹立たしい映画を観てしまった・・・それで例によって、映画を観ている間に婉曲話法の感想コメントを考えておいて、我ながら巧いコメントが浮かんだと思ったのだが……。
試写室から出て、配給会社の人に「どうでした?」と聞かれたとたん、私の口から飛び出した言葉は……ああ、何ということだ。
「ダメ」
のたった一言だったのだ。ほんとうに「出たーっ」という感じ。それまで考えておいたコメントがまったくパー。
あまりにわかりやすい一言に、配給会社の人は驚いていたが、私だって驚いた。一瞬、自分が言ったようじゃあなかった。口の奥から別人格が飛び出して言ったようだった。
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私自身はごく常識的な小心者なのだが、どうも、体内にヘンな虫がいるような気がしてならない。気配り知らずの野蛮な虫が。
「腹の虫」という言葉があるくらいだから、誰でも一匹や二匹、自分でもコントロールできない虫を飼っているのだろうが、私の虫はちょっと強すぎるというか、声がデカすぎるというか。勝手なマネをして、飼い主をおびやかす。
ふと辞書で「虫」の項を引いてみたら、いくつかの説明の中にちゃんと「潜在する意識。ある考えや感情を起すもとになるもの。古くは心の中に考えや感情をひき起す虫がいると考えていた」と書いてあった。
話はちょっと逸れるが、二十代の後半の頃に、「私は自分の頭ではなく体のほうを信じよう」と決意(!)したことがあった。それまでの自分の人生を振り返って、理屈で動くとロクなことはなく、直観に従ったほうが相対的に正しい選択になっているように思ったからだ。要するに、私は頭はよくない。体(好悪や快不快、理屈の手前にあるもの、無意識の力)のほうがまだしも頼りになりそうだ―と思ったからだ。今にして思えば、自分の「腹の虫」の声によく耳を傾けようと思ったわけですね。「虫の声を聴け」。頭のいい人は聴かなくてもいいかもしれない。ただし世の中には頭を信用しすぎる人が多いような気がする。
ずうずうしいようだが、私は自分の「腹の虫」を信用しているのよ。・・・人が人を好きになるのは、結局のところ、その人の体内の虫同士が惹かれ合っているのだと思う。無意識部分が面白い人に惹かれる。つまり、虫が好く。・・・