喪失や欠落

SWITCHインタビュー達人達 是枝裕和×姜尚中

 

 このお二人の対談も、興味深く読みました。

 

P98

是枝 僕が最初に作品を海外に持って行ったところ、「あらかじめ喪失が前提になって物語が作られているけれど、それはなぜなんだ?」ということを、すいぶん聞かれたんですね。そこでさらにびっくりしたのは、「それはヒロシマナガサキとつながっているのか?」と。

 それで僕は、「かなり上の世代だったら、もしかしたらそういう解釈がありえるかもしれないけど、いま映画を作っている60年代生まれの連中は、おそらくヒロシマナガサキを前提にしているわけではないと思います」と答えたのですが。

 ただ、どこか満たされない感じというのが、作品も雰囲気だったり……それ自体がモチーフだったり、いろんな形で出てきているなというのは、冷静に見てみると、確かにそうだったんですよね。

 

姜 やはり、そうですか。

 

是枝 はい。そのことは否定しようがなくて。であれば、その欠落とか喪失というものを、どう描いていこうかと。そうやって意識的になったのが、僕のこの10年なんです。

 ・・・

 ・・・僕が惹かれる人間の美しさというものは、満たされた美しさではなくて、「欠落」を何かで埋めようとする行為……そこに自分は美しさを感じているんだと、すごくよくわかって。それならば、もう迷わずにそこを書こう、そこを描こうというふうに思って、実際にいまいろんな形でそれをやっているんですね。

 

姜 いまの時代というのは、「欠落」を何か暴力的なものや、ネガティブなものによって埋めようとする力が、いろんなところにちりばめられているような気がするのですが。それとはまったく逆の美しいもので、その「欠落」を埋められる可能性があるかもしれないと考えているわけですね。

 

是枝 はい。

 

姜 僕は『心』という本を書いて、「受け入れる」ということがどういうことなのかを、以前より抵抗なく感じられるようになりました。それは、ただ「運命に従順である」とか、ただ「起きたことを受け止める」ということではなくて、いろんな葛藤がありながらも、それを受け入れていくということで。

 僕は、50代までは受け入れられなかったと思うんです。そして、受け入れられないとどうなるかといえば、やっぱり誰かのせいにしてしまうんですよね。誰かのせいというのは、自分のせいも含めてですが。

 ある出来事が起きたときに、やっぱり僕たちは、どうしても犯人探しをしてしまう。

 

是枝 そうですね。

 

姜 でもあるときから、それをやめようと思ったんです。それをやめないと、やっぱり「受け入れる」ことができないんですよ。そういうふうに感情のベクトルが変わったときに、この『心』が書けたような気がしました。

 だから、僕は喪失感を受け入れることを考えたい。そこから何か、もっとポジティブなものが出てくるんじゃないかって。いまは思っているんです。喪失を埋めるというより、それを受け入れた果てに、何かを変える力が生まれるのではないかと。でも、それはまだ途上ですね。