何者でもなかった頃の話

僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう (文春新書)

「僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」という本を読みました。

 若かったころに考えていたことや、転機となった出来事など、面白い話がたくさん載っていました。

 こちらは、グレーゾーンの中で物語をつくりたいという是枝監督のお話です。

 

P143

永田 よく是枝さんの映画について言われることですが、悪を裁くという視点がありませんね。たとえば『誰も知らない』という映画で僕は、育児放棄をした母親を許せないと思ったりしました。でも是枝さんは、悪を糾弾したり裁いたりするとカタルシスが生まれて、観ている人がそこに描かれていること自体を引き受けようとしないと言っておられますね。

 

是枝 映画で描かれていることは監督がつくり上げた世界なので、断罪しようとすればいくらでもできるんです。こいつを不幸にしてやれと思えば、そう描けばいい。それは簡単なことですが……。

 ・・・

 悪を排除して解決できることなんて、実は大した問題ではないと思っているんです。それに、絶対的な善悪とは何なのかと考えはじめると、絶対的な善としての神が必要になってくるのではないでしょうか。でも、僕は神様がいない世界に生きているつもりなので、真っ白と真っ黒を放棄したグレーゾーンの中で、物語をつくり続けたい。・・・

 

永田 人間はみな、嫌な部分を持っていて、嫌なところがない人は人間じゃないともいえる。僕なんか、嫌な部分がない人とはつき合いたくないな、とまで思ってしまいます。『そして父になる』で、福山さんは嫌味な人間を実に上手に演じているんですが、決して嫌な感じではない。それを見ていると、逆説的ですが、嫌な部分って自分にもあるんだということを思い知らされます。

 

是枝 ええ。・・・その嫌味な部分は、観ている人にとって身に覚えがあるものとして受け止められるかもしれません。たぶん、観ていてモヤモヤするでしょう。実は、それが狙いなんです(笑)。

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 映画に出てくる嫌な部分は、全部僕の嫌な部分でもあります。カッコイイ福山さんに言わせているから、みなさんは見ていられるのだと思いますけど(笑)。