現代アートの蔡國強さんと、いわきのおっちゃんこと志賀忠重さんの、不思議なスケールの大きさのお話を読みました。宇宙規模の発想に心地よい刺激を受けました。
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「原初火球」とは、中国語で宇宙の始まりの「ビッグバン」を意味する。・・・それは、蔡のイマジネーションの爆発そのものだった。
そんな構想の一例が、蛇腹のスケッチブックにもあった、「ビッグフット(巨人の足跡)」、正式名は≪大脚印―ビッグフット:外星人のためのプロジェクトNo.6≫である。
宇宙の足元である大空で火薬を爆発させ、その光で空を駆け抜けていく巨人の足(ビッグフット)を表現するものだ。巨人は、人間が戦争や諍いの結果としてつくった国境という壁を自由に超えていくシンボリックな存在として登場する。
人類はいつから国境を認知するという不幸な習慣を持つようになったのだろう。人類は文明のひとつの成果である火薬を、この本来存在しない線の上でもっとも多く使用してきたし、また今後も使用しつづけるだろう。火薬が国境線を超えるときは、つねに戦争という悪夢が再演される。
E.T.が国境を無視するように、われわれの内部に棲み、ときとしてその根源の力を現わす超人類の意志も、国境線を無視する。地球上どこでも人類が共有する地平線がある。しかし、この地球の地平線を超えた向こうに、さらに人類が共同で目指すべきものがある。それは、われわれが速やかにやってきて、また帰っていくところ……すなわち『宇宙の地平線』である。(『原初火球』)
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東西体制を隔ててきた物質の壁は除去されても、いまだ地球の各所に、また人類の精神の内部に築かれつづけている無数の壁は消えていない。取り壊されたはずの壁を瞬時に再現することにより、人類の魂にさらに解放されるべき「壁」の存在を喚起させる。(前同)
つまりは、差別や分断といった心の内部にある壁こそ、取り去るのが、難しいということを表現している。この考察は、のちに蔡の代表作となる作品を生み出すことになる。
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それにしても、蔡は、なぜ宇宙をテーマにした作品をつくり始めたのだろうか。もちろん、子どものころから宇宙に憧れていた、というのはひとつの理由だろう。しかし、それだけではない気もした。
「『外星人シリーズ』は、天安門事件と関係があります」と蔡は語り始めた。そう、そこには日本に住む中国人が直面したもうひとつの事情が重なっていた。
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思い返せば、蔡が「外星人シリーズ」を開始した一九八九年というのは、世界の秩序や社会構造がハンマーで叩き壊されたような年だった。一一月にはベルリンの壁が崩壊、一二月にはソ連とアメリカが冷戦の終結を宣言し、東欧諸国が民主化を遂げた。
蔡一家は天安門事件の勃発により、帰るべき故郷を失った。しかも、中国のパスポートでは他国に渡航したり、移住したりすることも容易ではなかった。
何でこの世に国境なんてあるんだろう?蔡はその理不尽さを思い知った。
「それで『自分が異星人だったら、国境なんて無視して越えていくだろう』というアイデアが浮かんだのです」
ああ、そうか、そうだったのか―。
きっと蔡にとって芸術とは、人為的につくられた国境という壁をやすやすと越えていく巨人そのものなのだ。自由な世界に旅をしたい、空を飛びたい、宇宙を見たい、そう切望し続けてきた青年にとって、作品をつくることは、広い世界へ飛びだしていける唯一の手段だった。そしてその狂おしいまでの希求を作品に昇華させ、≪ビッグフット≫を生み出した。