すべて宇宙の一部

空をゆく巨人

 こういう発想、すごい、大きいな~と思いました。 

 

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 蔡の作品の魅力のひとつが、品のあるユーモアではないかと私は思う。物事をシリアスにするのは簡単だが、クスッと笑わせるのは難しい。・・・

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 この年、・・・蔡はビエンナーレの後援企画である「トランスカルチャー展」に招待されていた。異なる文化間のコミュニケーションをテーマにし、オーストラリア、アフリカなどから一五人が参加していた。

 そこで蔡が発表した作品は、≪マルコ・ポーロの忘れ物≫―。

「今年はマルコ・ポーロ泉州を出港し、海のシルクロードを通ってヴェニスに帰港して七百年にあたります。彼は東洋から多くの珍品を持って帰ったが、精神までは持ち帰らなかった。だからこの機会にマルコ・ポーロが忘れた東洋の精神をヴェニスに持っていこうということです」(『東京人』一九九五年七月号)

 ―はて、東洋から持ち帰らなかった東洋の精神とはいったい何のことだろう。

 ・・・泉州でもマルコ・ポーロは有名で、多くの子どもたちが『東方見聞録』を読んでいた。しかし、蔡自身はその内容に違和感を覚えた。本では東洋が奇異な習慣を持った国々として描かれていた。

 その違和感はずっと彼の奥深くにくすぶっていたようだ。それから時が巡り、今回、泉州生まれの蔡がマルコ・ポーロの故郷・ベネツィアで作品を発表する機会がやってきた。そこで「よし、いまこそ自分が東洋の精神をヨーロッパに伝えよう」と考えた。

 まず蔡は、中国に戻って古いジャンク船を手配しベネツィアに送った。七〇〇年近く前に泉州を訪れたマルコ・ポーロが見たものと基本的には同じ木造の帆船だ。

 芸術祭のオープン当日、世界中から集まった観光客は、歴史ある運河に奇妙な古い船が帆に風を受けてゆっくりと入ってくるのを目にした。

 何だ、あれは?

 これは演劇の始まりのような巧みな演出だった。船上にいる蔡は、風向きやスピードを緻密に計算し、オープニングに合うようにジャンク船を入港させ、人々を驚かせたのだ。

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 ・・・ここからが、ショーの本番。蔡はジャンク船を運河沿いのギャラリーの外につけると、大きなずだ袋をせっせと船から運び込んだ。その姿はまるで中国からやってきた商人さながらで、袋のなかには朝鮮人参が一〇〇キロ分も入っていた。

 これで、東洋の精神を代表する「気」を高める薬湯をこしらえ、訪れた人々に振る舞うというのが今回の作品だった。供されるのは、中国の漢方医師と相談して配合した本格的なものだ。同時に、日本風の自動販売機も設置し、瓶詰めの漢方薬ドリンクも販売した。

 芸術祭に訪れた人々は、運河の涼しい風に吹かれながら、おっかなびっくり特製ドリンクを飲み、マルコ・ポーロが持ち帰り忘れた〝東洋の精神〟を体に取り入れた。

ベネツィアビエンナーレの会場は広くて疲れるから、展示室ではリラックスしてもらいたかった」と語る通り、気遣いとユーモアを感じさせる作品なのだが、よくよくひもといてみれば、文明発見史、異文化の交流、中国の伝統、そして日本風の自動販売機など、過去と現代、ヨーロッパとアジアの要素が巧みに融合されている。一般の観光客や市民を楽しませる「わかりやすさ」の奥のもうひとつのレイヤーに、美術関係者も舌を巻いた。

「蔡さんの発想って大きいんですよね。大陸的だなと。本物のジャンク船を持ってくる発想や現代美術の世界に中国の漢方を持ち込んで、鑑賞者にも参加させるということが、すごく新鮮に思えました。蔡さんは、独特なやり方で人々をアートに関わらせて、関わった人は心身ともに少しずつ変化してゆくんです」

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「漢方も風水も私にとっては同じく宇宙の一部。そして人間もまた宇宙の一部なのです」

 蔡は古いジャンク船に乗って運河を往来し、観光客の目を楽しませ続けた。