お客さんは安心感を買う

食の達人たち フードストーリー (小学館文庫)

「ます多」のご主人が客商売の原点を学んだというエピソード、興味深かったです。

 

P151

 増田は地元、京都の私立高校から大阪学院大学に進む。将来は、ばくぜんと料理人になりたいなあという希望を持っていたが、それは料理が好きだったこと、そして見知らぬ他人と話をしなくともできる仕事と理解していたからだ。他人と丁々発止のやり取りをするような職業に就くつもりは一切なかった。静かにこつこつと作業をするのが自分に向いていると、ずっと思いこんでいたのである。しかし、大学生になって、あるアルバイトを経験してから、彼の性格はがらりと変わったのである。

「『内気な人も大丈夫』という募集を見て、人形の売り子をやったんです。・・・大学時代はまるまる4年間、そればっかりやってました。なんといっても上司に恵まれました。上司のアラシタ(新下)さんという人が商売上手でねえ……。モノを売るとはどういうことかをちゃんと分析して、懇切丁寧に指導してくれたんですよ。アラシタさんは『客が買いに来るのは安心感や』とよく言ってました。たとえば、売り場に数十種類の雛人形が置いてあるとします。

『いいかね、増田くん、全部の値段を覚えておかないかんよ。それから5%引き、7%引きの値段も暗記して瞬時に応えられるようにしないといかん』

 お客さんは数字をパッと答えられない店員に対しては不安を抱く。モノを売るには客を安心させることやと教えられました」

 アラシタさんの販売に関する分析は科学的で、指導は具体的だった。増田が最初に教わったのは、人形を買いに来た客に声をかけるタイミングである。

「いいかね、増田くん、人間が物を買う時は、まず自分がいちばん欲しいものの前に立つ。それを忘れてはいかん」

 アラシタさんによれば、人形に限らず、肉でも野菜でも、店に入ってきた客はまず、予算の範囲内で、これが欲しいという品物の前に足を止めるというのである。そして、アラシタさんは、「最初の時点では声をかけてはいけない」と言った。

「人は買えないとはわかっていても、高価な品物を見てみたい。また、絶対に買うつもりのない安い商品も眺めてみたい。それが終わったら、客は必ず欲しい商品の前に戻ってくる。そこで声をかけろ」

「アラシタさんは続けてこう言ったのです。『客が戻ってきた瞬間だ。その瞬間に売るんだ。お客さま、初節句でございますか、と。それ以上のセリフは必要ない。あとは客の話を聞け』と。

 あの人はすごかった。僕はあの人から客商売の原点を学んだと思ってます」

 人形の販売に携わったことで、増田はシャイな男から、話し上手、セールス上手の人間に生まれ変わった。同時に素晴らしい営業成績を上げ、・・・大学卒の月給が6万円(1973年 銀行)くらいだったが、増田は人形の販売でひと月に17万円もの歩合給を稼いでいた。