幻の生ハム職人

イタリア人の働き方 (光文社新書)

こちらは幻の生ハムを作る職人さんのお話です。

P112
 ドズヴァルドのハムのファンは多い。しかしそう簡単には入手できない、幻の逸品でもある。
 ・・・
 ・・・売りに出されるハムの数は年間たった一五〇〇本である。・・・順番待ちの一覧には、アルマーニやオペラ歌手のパヴァロッティ、・・・などがずらりと並び、まるで各界のVIP名簿そのものである。皆、自分の順番が来るのをじっと待つ。たとえ天下のビル・ゲイツから天文学的な額を提示されたとしても、ドズヴァルドは容赦なく<NO>と答えるだけ。
 ・・・すまなそうに、ロレンツォ・ドズヴァルドは説明する。
「・・・現状で満足です。少量生産だがイタリアで最高品質の、無敵の生ハムを作れるほうが、ずっと誇り高いことだと思います。・・・」
 ・・・
 おいしさを生み出す秘訣は、何なのか。答えは、イタリアの物作りの名人誰もが異口同音に言うようにドズヴァルドも、
「<情熱>と<家族が守り継承してきた伝統>と<ごく詳細にまで及ぶ、マニアックなまでのこだわり>、そして<大量生産を拒絶できる勇気>にあります」
 と答えた。さらに続けて、
「限定生産だからこそ、私が自分の目で生ハムができあがるまでの全工程を厳しく管理できるのです。
 まず原材料の選択からもちろん、私が行います。・・・近隣の優秀な養豚業者をくまなく知っています。・・・飼料は、すべて天然の農作物でなければならない。麦や大麦、ジャガイモ、ドングリなどです。・・・
 ・・・
 処理される前にトラウマを受けたような豚の腿は、たとえ一見して問題がないようでも、けっして使えるものではありません。生ハム作りの工程で、生前に受けたトラウマの後遺症がはっきりとその味に現れるからです。
 ・・・
 処理されるときに、ほんのわずかでも熱を出していた豚の肉も、駄目です。肉の色が赤く変わってしまい、最高のピンク色でなくなります。この優れた品質のハムの色というのは、うまく言葉では言い表せないですね。濃いピンク色と薄い紫色のあいだ、でしょうか。
 フランスの哲人デス・カルは『時間とは何か』と問われたとき、『私にははっきり何かわかっているが、言葉では表現できない』と答えていたそうですが、私も同じです」
 原材料である豚を選ぶところから鑑識眼が必要らしいが、見分けるコツはあるのだろうか。
「目と指先だけです」
 笑ってドズヴァルドは答える。
「目で見て、指で感じる。他の道具は必要ありません。ただ経験を積む、としか申し上げようがありませんね。少なくとも三〇年の経験が必要でしょう。完璧な仕上げをめざす執着心がなければ、続きません」
 ・・・
 さて、まるで子供同然にして愛情をたっぷり注いで作られるハムは、いったいいくらくらいするものなのか。価格を問うと、予想外に安い。腿一本一二キロ分のハムの価格は、二〇〇ユーロ(二万六〇〇〇円)だという。・・・
 ・・・
「必要以上に高い価格は付けません。私がハム作りにかける手間ひまに対する評価分と、上質の原材料代が組み込めればそれでいい。仕事の内容に対する、きちんとした評価が何より大切で、それは私と家族に対する評価でもあると思います。そして私のお客さんの見識眼を評価する、ということにもなりますね」
 ・・・
「私にとって幸せな人生というのは、楽しく質の高い仕事をすることですが、妻や子供たちと楽しい時間を過ごせることも同じくらい大切なことなのです。工場を大きくすれば、銀行口座にはもっと高額の預金ができるのでしょうが、仕事に追われて家族と温かい時間を過ごせなくなるでしょう?・・・」