立場と意見

自分探しと楽しさについて (集英社新書)

確かに自分の立場と切り離して意見を言う人は少ないかも、と思いました。

P115
 ・・・ゲームが登場したことで、人類は少しだけ「平和」に近づいたのではないか、というのが僕の率直な感想である。
 こういうことを書くと、また勘違いされそうだが、僕はゲームはまったくしない人間だ。意見とは、自分の嗜好をサポートするものではない。僕は喫煙は自由だと考えている。しかし、僕は喫煙はしない。僕は推理小説を書くが、現実の殺人事件などには一切興味がない。
 他者を認める。自分を確立する。それによって生まれるのが、この意見と立場の分離、もっと簡単にいえば、現実に囚われない自由な思考であると思う。少し難しいかもしれない。ゆっくりと考えてみてほしい。
 ある人がなにか意見を言うと、その意見はその人を有利にするものである、と決めつける人が大多数だ。現実に、たいていの場合はそうなのである。しかし、必ずしもすべてがそうではない。純粋な意見、素直な意見というのは、発言者の環境に影響されない。
 自分のためだけを考えて意見を述べるのではない。他者のために考えて意見を言うことだってある。それが「正義」というものではないかと僕は思う。その意見が、偶然にも自分の利となる場合は、かえってやりにくくなる。一例を無理に挙げてみよう。
 僕は、図書館がベストセラの本を大量に仕入れて利用者に提供することは「不自然なこと」だと考えている。図書館は本を買ってはいるけれど、その本が100人に読まれるならば、100倍の価格(あるいはそれに近いグループ価格)を支払うのが妥当だろう、と思う。それが僕の意見だ。しかし、僕自身がベストセラ作家だとしたら、これは言いにくい話だ。本当のところ、僕はもう小説でお金を稼ぐ気はないので、自分の著作に関してはどうだって良い。でも、この意見は必ず誤解されるだろう。
 また一方で、図書館を利用している人たちの中には、この意見を聞いて、自分の行動が否定されたように感じる方もいるだろう。僕の意見は、図書館の利用者にはまったく言及していないが、人というのは、自分に関わるものは無条件に守ろうとするものだ。
「少し考えてみればわかるだろう」とは思うけれど、残念ながら、少し考えてみる人は割合としては少ない。したがって、「正義」はなかなか伝わらない。けれど、少しずつでも発言していかなければ、前進はしないし、これまでの歴史を見ると、そういった思想、発言があって、何十年、何百年と遅れてだんだん社会が変わっているように思える。だから、無駄ではない。悪い方向ではない。そう思って(「現在の誤解」を覚悟のうえで)意見を述べることにしている。