森博嗣さん

自分探しと楽しさについて (集英社新書)

よしもとばななさんの本で紹介されていた、森博嗣さんの「自分探しと楽しさについて」を読んでみました。
もう10年以上前、この方のミステリにはまって読みまくった覚えが。
この本も、森博嗣さんらしさ満載でした。
たとえばこんな文章。
「『子供の頃から、大人になったら自分探しの旅に出ると決めていた』という強者もいたが、彼はインドへ行った。呆れるほど、あまりに普通である。」
「何故、そこまで他者に依存するのだろうか?理解できないといっているのではなく、理由の論証が難しい、と感じる。」

ここは、とても大事だなと思いました。
P101
 本章で一番大切なことを書こう。「他者」を認めること、それが「自分」を確立する。認めるというのは、存在を認め、立場を認め、意見を聞き、人格を尊重し、必要であれば、守り、敬う、ということである。
 自分が好きな人、自分の意見を支持してくれる人だったら、それは簡単である。自分の利益になる他者は、誰だって自然に大切にするだろう。しかし、それだけではない。自分と意見が違う人に対しても、できるかぎり尊重しなければならない。これができることが「理性」というものだ。ただし、この「尊重」とは、その意見に従え、という意味ではもちろんない。
 人間はバラエティに富んでいる。いろいろな考えの人がいるから、これだけ面白い社会になったのだ。みんなが同じように考え、同じ価値観を持っていたら、どれだけ薄っぺらい世の中になっていただろう。そもそも、それでは人類はここまで発展できなかったはずである。そして長い歴史を通して、ようやく自由社会を築き上げ、人権を確立しつつある。その最も基本的な考え方とは、「君と僕の意見は違う。しかし、僕は君を認める」という精神なのだ。意見が異なることは、お互いの存在を否定することではない。相手を嫌う理由にさえならない。意見が違うことを認識し、どうすれば良いかを考えることに価値がある。そういう社会を人間は作ろうとしている。まだまだ理想には遠いかもしれないが、まずは、それをルールとして決めたことは素晴らしい。
 意見が違うと、相手の人格まで否定し、貶し合いをするような場面が今でもまだ多い。これは間違っている。それでは前進はしない。相手の意見を否定しても、相手の人格は絶対に尊重しなければならない。
「他者」がどんな考えを持っていても、「他者」を尊重する。それによって、「自分」が確かなものになる、ということがなかなか実感できないかもしれない。人は、自分と違う意見の他者がいると、なんとか説得しようとする。自分の意見の正当性を主張し、相手の主張の間違いを指摘する。こうした議論は大切である。議論をしなければ、そもそも相手の考えはわからないし、理解し合えない。しかし、いくら自分の方が正しいと考えていても、相手が納得しない場合がある。これは感情的な判断が混在した結果かもしれないし、言葉の定義が違うある種の誤解かもしれないし、相手が頑なに思考を停止して理解を拒んでいる状況かもしれない。そのいずれであっても、相手の間違った(と思われる)意見に対して、やはり尊重しなければならない。「どうしても君がそう考えるならば、しかたがないね」と握手することである。その人が、そういう意見を持っている、と理解する以外にない。それ以上に、相手に影響を及ぼすことはできない。
 そして、こういう経験を重ねるうちに、「自分」に対しても、「そうか、僕はどうしてもそう考えてしまうんだな、まあ、しかたがないか」と認めることができるようになる。まったく同じプロセスなのだ。