右左という言葉がない

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

言葉によってこの世界を知覚しているのだなーと改めて考えてしまうお話でした。

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「よし。この手をアメリカ人は『左手』と言う。ブラジル人は『マン・エスケルダ』と言う。ピダハンは何と言う?」
「手」
「ああ、手だというのはわかってる。『左』の手のことは何と言う?」
「おまえの手」
「違う、見てくれ。これはきみの左手だ。こっちはきみの右手。これは私の左手で、これがわたしの右手だ。こういうのをきみたちは何と言う?」
「これはおれの手。これはおまえの手。これはおれのもうひとつの手。これはおまえのもうひとつの手」
・・・
 ・・・コーホイが凝りもせず同じ作業に付き合ってくれるというのがせめてもの救いだった。私は最初からやってみた。
「マン・エスケルダ」
 これにコーホイはこう答えた。「手は上流にある」
 ・・・
 わたしはコーホイの右手を指差してみた。
「手は下流にある」
 ここでわたしはあきらめ、別の話題に移った。だがその後何日も、言語学者としての自分の無能ぶりがほとほといやになっていた。
 一週間後、わたしは男たち数人と狩りに出かけた。・・・カアアウーオイが列の後ろのほうから叫んだ。「コーホイ、上流へ行け」
 コーホイは右の道へ進んだ。・・・さらに行くと、わたしたちの進む方角は変わっていった。
 別の誰かが先頭を行くコーホイに呼びかけた。「上流に行け!」今度コーホイは、右ではなく左へ向かった。指示は同じ「上流へ」だったのに。
 その日の狩りの間、方向の指示は川(上流、下流、川に向かって)かジャングル(ジャングルのなかへ)を基点に出されることに気がついた。ピダハンには川がどこにあるかわかっている(わたしにはどちらがどちらかまったくわからなかった)。方向を知ろうとするとき、彼らは全員、私たちがやるように右手、左手など自分の体を使うのではなく、地形を用いるようだ。
 わたしにはこれが理解できなかった。「左手」「右手」にあたる単語はどうしても見つけることができなかったが、ただ、ピダハンが方向を知るのに川を使うことがわかってはじめて、街へ出かけたとき彼らが最初に「川はどこだ?」と尋ねる理由がわかった。世界のなかでの自分の位置関係を知りたがっていたわけだ!