角田光代さんの20年近く前のエッセイ集、おもしろかったです。
P39
一番苦手な乗りものは飛行機だが、異国を旅するのが好きなのでどうしても世話になる。・・・
それで毎回感心することがある。航空会社はじつに個性に満ちあふれており、その個性が機内の隅々にまで浸透している、ということだ。
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韓国の航空会社を使ったときは、かなり長いフライトだったのだが、だんだん機内が親密な雰囲気になっていくのがおもしろかった。老女が荷物を上げ下げするときはだれかが立ち上がって手を貸し、乗務員が食事などを配るときはみな手伝う。このときの機内食はビビンパだった。チューブ入りの辛味噌を絞り出す私を、右隣、左隣、斜め前の乗客がじっと見ている。いきなり斜め前のおばさんが私に何か言った。「それを入れすぎると辛くて食べられなくなるからそれぐらいにしておきなさいと言ってます」と、右隣の男性が英訳してくれた。プラスチックのスプーンでかき混ぜ、さあ食べようと口を開くと、「まだだ!」と左隣の男性が叫ぶ。何ごとかと身をかたくする私に彼は言った、「かき混ぜかたが全然足りない」。親族ご一行のような機内である。
興味深かったのはバングラデシュの航空会社だ。成田発だが、乗客はほとんどダッカに向かうバングラデシュ人で、シートベルト着用のランプがついているのにみなうろうろ歩きまわっている。歩き煙草をしている人もいる。乗務員も注意しない。
私の隣の乗客は、「日本で六年間働いた」と、流暢な日本語で話しかけてきた。「でも今朝、日が昇りきらないうちに警官がきて、今すぐ帰れって言うんだよね」と、彼は天気の話をするように言っているが、それは強制送還ではないか。「おれの送った給料で、家族は電話を買ったんだ」と、そう言って彼はうれしそうに笑っていた。
P136
ほんの数日、香港にいってきた。香港に降り立つのははじめてである。九龍半島の先端、尖沙咀を歩いていたとき、猛烈な既視感にとらわれた。テレビや写真で見た光景が頭にこびりついているのかと思ったが、そうではなく、もっと体の奥深くで知っているような、不思議な感覚だった。一軒のお茶屋に入って漢方茶を飲み一息ついたとき、あ、と声を出しそうになった。その既視感の出所にようやく思い至ったのである。
数カ月前、香港を舞台にして短い小説を書いた。香港にはいったことがなかったので、ガイドブックの地図を隅々まで見て、駅名や通りの名前を眺め、いったことのない町が見知らぬ言葉の合間から立ち上がってくるのをひたすら待った。
そのうち、クラクションが響き異国語が飛び交い、スパイスと漢方のにおいがたちこめ、看板に書かれた漢字が襲うように目に飛びこんできた。その町を、路地を、歩くように小説を書いた。
そのとき思い描いたものと、私が実際歩いている町が、等しく同じだったのである。歩道の幅から、においの種類から、喧騒の度合いまで。曇った感じも雲の切れ目から光の射す感じも。
・・・旅したこともない場所を、旅する前に旅ができたのははじめてのことだった。そうかあのとき、私は地図のなかに入りこみ、パスポートも持たずこの地を歩いていたんだな、と思った。ちょっと、いや、たいそううれしかった。
私にとって小説を書く喜びというのは、そんな安上がりな旅が、一歩たりとも移動せず、成功するときである。小説の出来不出来はともかくとして。
P196
このあいだ、新刊取材で、「あなたが結婚に至ることのできない理由はなんだと思いますか」といきなりインタビュアーに訊かれてたいそうたまげた。質問の無礼さにたまげたのではなく(ちょっとはたまげたが)、私とほぼ同世代のインタビュアーがたいへん無邪気に結婚崇拝をしていることにたまげたのである。結婚がすばらしいという個人的見解を持つのはかまわないが、万人にとってすばらしいはずであり、未婚者はことごとく結婚を目指しつつ叶わない人のはず、と今もって信じられるその力はなんなのか、私は心底、曇りない気持ちで知りたい。ダイビングの免許をとらない理由、バンジージャンプをしない理由、北海道から沖縄まで自転車でまわらない理由は何か、ということと、結婚に至ることの「できない」理由は私にとってみな同じで、それらに等しく興味が持てないからだ。そうすることの意味がよくわからないからだ。薄型大画面テレビと同じ、モトがとれるかどうか疑わしいのだ。バンジージャンプも、たぶん、結婚も。
P206
受賞が決まりましたら東京會舘へ。という言葉は、今まで何度も聞いてきた。芥川賞、直木賞の候補者にあらかじめ通達される言葉である。二十四、五歳のとき芥川賞で三回、それから二年前直木賞で一回、今度で五回目の「受賞が決まりましたら東京會舘へ」である。
今までずっと落選してきたのだから、東京會舘へは一度もいったことがない。・・・
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そんなわけで、受賞が決まりました、と聞いたとき、うれしい、とか、どうしよう、とか、嘘かも、とか、ぎゃあ、とか、そんな気持ちの合間に、ぼんやりと「東京會舘が見られる!」というのがあった。
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記者会見が行われるフロアでエレベーターの扉が開き、開いた途端、ぱあっと大勢の人の顔が目に入った。みんなにこにこ笑っている。笑って、手を叩いている。あ、と思った。気がついたら、泣いていた。
そこにいた面々は、各社の担当編集者の方々だった。そうして、つい先日、私のために集まってくれた人々だった。
ちょうど一カ月半前、私は母を亡くし、ばたばたと葬儀を出した。ほとんどの身内がもう亡くなっていて、私が喪主をつとめた。身内もおらず、自分で葬式を出すのもはじめてのことで、何をどうしたらいいのかわからない。母が死んでしまったことすらもまだ実感できていなかった。そのとき、駆けつけてくれたのが数人の編集者だった。ノートとペンを用意した彼らは、ぐちゃぐちゃと泣いている私のかわりに、てきぱきと事務的なことを決めてくれ、葬儀の際のアドバイスをくれ、いろんな人に連絡を取ってくれ、当日までにすべきことをリストアップしてくれた。
さみしい葬儀にはしたくない。そんな私の胸の内を理解してくれたかのように、じつに大勢の編集者の方々が集まってくれた。会ったこともない母のために泣いてくれた。自分の娘がこんなに大勢の人に支えられていると知って、母は安心して旅立てたに違いなかった。
エレベーターを降りて目に入ったのが、その同じ面々だった。不謹慎な感想だが、「あ、葬儀のときと同じ顔ぶれ」とまず思った。「今日はみんな喪服じゃない」続けて思った。人前で泣くのなんか大嫌いなのに、そう思ったら、泣いてしまった。
かなしいときに黒い服で駆けつけてくれた人々が、うれしいときに色とりどりの服で駆けつけてくれている。こないだいっしょに泣いてくれた人々が、今日はいっしょに笑ってくれている。なんかすごい。すごいことである。ありがたいという気持ちをはるかに超えてうれしかった。
P251
私の通った小中高には、風変わりなおじさんがいた。おじさんというよりはおじいさんというほうが近いような、初老の男性である。・・・クリスマス礼拝で踊ることもあれば、事務室にいるときもあり、あるいはまったく姿を見せないときもあった。
高校生のとき、演劇部に属していた私は、彼にクリスマスページェントの指導を受けた。不思議な踊りであった。ゆるやかで、植物のような動き。激しい動きではないが、しかし激しく動くようにしんどい。そうして私たちに指導してくれているときも、彼は自分が何ものか説明しなかった。というより、彼は無口で、指導以外のことはほとんど何も言わなかった。私たちのあいだには、ただ、植物のような踊りのみがあった。
彼がだれであったか知ったのは、高校を出てからだった。彼は、大野一雄という、世界的に有名な舞踏家だった。ずっと昔、彼は私のいた女学校で体育の教師をしていたことがあり、その縁で、世界を巡る公演のかたわら、時間があるときには学校にやってきて、行事に参加してくれていたらしい。
私は彼を思うとき、いつでも、背筋を伸ばしたいような気持ちになる。自分が何ものであるか、どれほどの名誉を得ているか、彼は自分からいっさい触れることがなかった。そんなものは彼にはなんの意味もなさなかったのだ。彼はただ、彼自身だった。花が美しさを誇示せずそこにただ在るように、彼は自分自身として、いたのである。
そのような大人になり、そのような大人であり続けることが、いかに難しいか、年齢を重ねるにつれ実感する。・・・
