「情動的共感」と「認知的共感」の区別は大事だなと思います。
P105
人は共感力の高さによって善き人になるのでもなければ、共感力の低さによって悪しき人になるのでもない。・・・性格の善さは思いやりや気づかいなどの、より距離を置いた感情に関係し、邪悪な性格は思いやりや他者に対する敬意の、あるいは欲望をコントロールする能力の欠如に関係すると考えられる・・・
P170
哲学者のチャールズ・グッドマンは、仏教の道徳哲学を扱った本のなかで、仏教の教義では、本書でいう共感に該当する「感情的な思いやり(sentimental compassion)」と、私たちが通常思いやりと呼んでいる「偉大な思いやり(great compassion)」を区別すると述べている。彼によれば前者は菩薩を消耗させるので避けるべきであり、追求する価値があるのは後者である。偉大な思いやりは、より距離を置いた立場をとり控えめで、いつまでも維持することができる。
共感と思いやりのこの区別は、・・・神経科学の研究によっても支持される。・・・タニア・シンガーと認知科学者のオルガ・クリメッキは、この区別について次のように述べている。「共感とは対照的に、思いやりは他者の苦しみの共有を意味しない。そうではなく、それは他者に対する温かさ、配慮、気づかい、そして他者の福祉を向上させようとする強い動機によって特徴づけられる。思いやりは他者に向けられた感情であり、他者とともに感じることではない」
こちらは訳者あとがきです。
P296
著者はまず、「共感」を「情動的共感」と「認知的共感」に分ける。情動的共感とは、端的に言えば「他者が感じていることを自分でも感じること」をいう。これは感情のミラーリングを意味し、たとえば「不安を感じている人をなだめる」などといったケースで行使される、思いやりや配慮のような他者の感情のミラーリングではない能力とはまったく異なる点に留意しておく必要がある。一般的に言えば、情動的共感を覚え、相手の不安をミラーリングした結果、自分自身でも不安を感じてしまえば、相手をなだめるどころではなくなってしまうだろう。医療などでは、医師が患者の不安や怖れに情動的に共感することは一つの問題になり得、それを「情動の底なし沼」と呼ぶ精神科医もいる。対する「認知的共感」は、著者の言葉を借りれば、「他者の心のなかで起こっている事実を、感情を挟まずに評価する能力に結びつけてとらえる」という意味での共感であり、要するに他者の立場に身を置いて、他者の視点でものごとを考えることをいう。したがって大雑把に言えば、情動的共感が情動的、感情的な働きかけであるのに対し、哲学者や心理学者が「心の理論」と呼ぶ認知的共感は、認知的、理性的な働きであるとも言えよう。また、それらを処理する脳領域も異なる。
著者が特に問題にしているのは、これらのうちの情動的共感のほうであり、認知的共感に関しては、善き行為にも悪しき行為にも関与し得る中立的なツールと見なしている。さらに言えば情動的共感にしても、それがとりわけ問題になるのは、道徳的な問題や公共政策に適用された場合においてとされている。では、なぜそれらに情動的共感が適用されると不都合が生じるのか?著者の主張をかいつまんで言えば、次のようなものになる。情動的共感は射程が短く、見知らぬ人々より身内や知り合い、あるいは身元がわからない多数の匿名の被害者より、身元が明確にわかる少数の被害者を優先する郷党的な先入観が、無意識のうちに反映されてしまう。著者はこれを数的感覚のなさ、あるいはスポットライト効果と呼ぶ。だから、井戸にはまった、ただ一人の顔がはっきりした少女には、メディアのスポットライトが当たり全米が注目するのに、アフリカで飢えている大勢の匿名の子どもたちにはほとんど誰も目もくれないといういびつな状況が生まれるのである。道徳的な問題や、公共政策に関して、その種の特殊な利害や関心が絡むのは不適切であることは言うまでもないだろう。
