日本のよさも捨てがたいものの、この本を読みながら、もう少しゆるいと生きやすいなぁと思ってしまいました。
P34
日本はシステムがかなり整った国です。電車は時間通りに来ますし、コンビニは二十四時間開いており、どんな田舎のコンビニに行っても応対はマニュアル通りで丁寧です。道路は整備され、信号やエスカレーターが故障したまま放置されていることもありません。官公庁の仕事も分かりやすいです。
こういう国で育つと、人は「予定通りに進むのが当たり前」「壊れていないのが当然」と思うようになり、少しでも自分の期待にそわないことが起こると、たちまち文句を言い、怒りだす人がいます。「自分はこんなにがんばっているのだから、あなたもがんばるべき」と相手にも同じように厳しい要求を突きつけるのです。
「ちゃんとした」人びとが「多数派」として構成される日本社会では、子育てをしている「少数派」にとっては、同調圧力が辛くて息苦しくなってしまいます。他人に対して厳しくなると、それだけ期待値が高くなるのです。そして、社会から脱落する人が増えていきます。
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マレーシアに来るとまず家族連れが多いことに気づきます。一九九〇年代、三人の幼児のいる家族と一緒に旅行したのですが、どこに行っても子どもが歓迎され、可愛がられることが不思議でした。
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親がリラックスしていると、子どもも落ち着きます。
繰り返しになりますが、日本の方が国の補助や制度はずっと整っているのです。しかし、社会の包容力が違うので、非常に楽に感じるのかもしれないなと思いました。
「正しさ競争をしているわけではない」世界で、「ちゃんとしない人(=子ども)も受け入れてもらえる感じ」が気楽なのです。
何より良いなと思うのは、ここには、「人生を楽しもう」という親が多いことです。
小学校の行事では、子どもより親の方が楽しそうでした。
「親が楽しまなくてどうする」
このセリフを、何度言われたでしょうか。
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移住先として人気のあるマレーシアですが、サービスが整っている日本から来ると、実に多くの人が驚きます。断水や停電、家の水漏れもわりとよくあります。日本人移住者たちからよく聞く不満は、「マレーシアの人はちゃんとしてない」「常識が備わっていない」「日本ではこんなこと起きないのに」です。
役所も「ちゃんとして」なかったりします。役所での手続きは対応する担当者によって異なることも普通ですし、職員が書類を無くしてしまうことも起きます。ミスをしても日本のように責任を追及して謝りに来てはくれません。淡々と、「まあ、間違いはお互いあるよね。じゃあ」でおしまいになることが多いのです。
P44
・・・この国ではスマホを持たずにいると世の中からどんどん置いていかれます。先ほどの感染管理アプリはその一つで、アプリをスマホに入れていないと建物の中に入りにくく、どこに行くにも不便だった時期がありました。
コロナ対策だけでなく、たとえば公営駐車場のチケット券売機を次々と撤廃し、アプリで支払う方式に変えてしまうなど、政府主導でさまざまな対策が取られています。
交通違反の罰金もアプリで払うようになり、「この国のスピードを舐めてはいけない」とマレーシア人に言われたことがありました。そういう意味では、日本は、インターネットやパソコン、スマホなどのITを普段からあまり使っていないような高齢者にはとても優しい社会だと言えるのです。
P46
・・・マレーシアの人たちは、細かいことはほとんど気にせず、テキトーに現場で調整しようとします。最初に息子が通った学校では、運動会のような年間で予定されている行事が延期になることがよくありました。コロナ禍の日本のように、突然の中止や延期という事態が日常的に起きるのがマレーシアなのです。
以前インド系の友人に、
「日本人はなんで予定を変えるだけで怒るの?予定は予定じゃない?変えてもいいものだよね?」
と訊かれたことがあります。「予定は未定、頻繁に変わるもの」というわけです。
私もマレーシアにいると、「まあ適当にやっておけば問題ないよね」となります。「まあいっかー」と割り切って考えていかないとストレスが溜まってしまうのです。
P52
『ルワンダでタイ料理屋をひらく』の著者、唐渡千紗さんは、アフリカのルワンダでタイ料理店を立ち上げた当初、日本との文化の違いに戸惑い、怒り狂いながらも店を営んでいました。
日本だったら絶対にそんなことは起きない……が、いやいや、待て待て。日本のことは一旦忘れよう。日本の常識も、コンビニ店員の神対応も、一旦全て忘れ去るのだ。
ここは日本ではないのだ。
それにしても、自分に沁みついた常識を忘れることが、これほどまでに難しいとは。
ところが、レストランのスタッフたちの育った背景をだんだん知るにつれ、「本当に自分が正しいのか」分からなくなっていくのです。ルワンダには過去のルワンダ虐殺の影響で孤児になっている人もいます。そのために教育を受けていない人が多くいます。とくに印象的なのが、四歳から孤児として育ったスタッフの言葉でした。
「スローリー、スローリー、ラーニング」。この言葉が、こんな背景、こんな生い立ち、こんな人生観から紡ぎ出されているなんて、全く知らなかったし、知ろうともしなかった。
・・・相手の背景に対して想像力が広がると、「常識」「礼儀」を押し付ける自分自身の暴力性に気づかされるのです。
P115
最近少なくなってきたようですが、二〇〇〇年代の日本のテレビ討論やTwitterで、相手を「論破」することが流行っていました。
私も長い間、「議論」のゴールは、
「相手をやっつけること」
「どっちが正解か、白黒つけること」
だと思っていました。
ところが、マレーシアのインターナショナル・スクールで学ぶ中高生たちに聞くと、そうではないと言うのです。
学校では生徒たちがかなりつっこんだ議論を毎日していますが、感情的になって相手を打ち負かそうと「論破」することはほとんどないそうです。
子どもたちは、
「僕たちが習っていることは、いかに『論破』しないか。むしろTwitterみたいにならないように議論する手法なんだよね」
と言います。そこで初めて、相手を「論破」するのではなく、「理解を深めるためにする」議論があることを私は知ったのです。相手をやっつけないということは、実は「協働」や「コミュニケーション」でとても重要なことなのです。
「ひとつの正解のために戦うディベートは最悪です」と言うのは、国際バカロレアのフェアビュー・インターナショナル・スクール・クアラルンプールの校長を務めるヴィンセント・チアン博士です。
「議論をして、最後にはどちらかが死ぬ。これはひどい勝ち負けのメンタリティにつながります」
国際バカロレアで重視される「オープンマインド」とは、自分と違う意見を認めることです。
「これは、『私とあなたのどちらが正しいか』の議論とはまったく異なります。私たちは、白黒思考ではなく、オープンマインドを奨励します。オープンマインドとは、他の人の意見を受け入れ、他の人も正しいかもしれないと考えることです。・・・
すると子どもたちはこうなります。『私たちはみんな正しくない』『でもみんな正しい』―しかしこれは大人でもなかなか理解できません。『いったいなぜ、私たちの両方が正しいなんてことがあるでしょう?どちらかが間違っているに違いない……』と。
『ほとんどのことに正しい答えはない』と学んだ子どもたちは恐れません。・・・試験では原則『正解は何か』より『あなたはどう考えるのか?』です。これは非常に重要なステップです。ここでの議論の目的は、『正しい答え』を見つけるためではないのです。学ぶためには『どうやって話すか』ではない。あなたは自動的に『聞く』ことになります」
P134
「ほとんどのことに答えがない」と理解すると、生徒たちは「勝ち組」「負け組」のような単純な比較を控えるようになります。そこではマウンティングも起きにくいです。
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マレーシア人はよく「ジャッジメンタルになるな」と言います。
ジャッジメンタル(judgemental)とは、「一方的な判断をする、性急に判断を下す」みたいな意味ですが、「決めつけ思考」とでも言いましょうか。
・・・
では、なぜジャッジメンタルが悪い意味になるのでしょうか?
長男が先生から教わった作家ウェイン・ダイアーの名言にこんなのがあるそうです。
❝When you judge another, you do not define them, you define yourself❞
(他人をジャッジしたとき、あなたが定義しているのは他人ではなく、自分自身である)
P144
第一章で紹介した特別支援教育に深く関わってきた三好健夫さんは、
「マレーシアでも自閉症など、発達障害の子どもたちを見てきましたが、日本人と比べてとにかく障害がマイルドというか、穏やかなのです。もちろん、飛び跳ねるなどの自閉症特有の行動は見られるけれど、奇声を上げて街に出かけられないとか、パニックになったり、自傷行為などの『どうしたらいいんだ』といった状態がほとんど見られないのです。この違いは何だろう。どうして同じ自閉症で違うんだろう、とずっとここ十数年考えてきました」
と言います。そして、
「その答えは、社会の許容量の問題ではないか。多国籍文化だから、マレー、中国、インドなどの文化が混じっていて当たり前。自閉症もひとつの文化だという捉えかたもあり、これも社会が受け入れてくれている。こうした多国籍文化と、多少の違いは気にしない社会の優しさにあるのではないか」
と分析しています。
P174
マレーシア人に「寛容」について聞くと、
「マレーシア人は寛容ではない。合理的なだけ」
という答えが返ってくることがあります。
・・・
「お互いに文句を言うこともあるけれど、結局この国は三民族と少数民族がいて成り立っている。民族の性格が違うので、それぞれに異なる分担ができ、結局は全員で仕事をした方が効率が良い。だから、コミュニケーションがとても大事なんだよね」
彼女が言うように、こんなに多様性のある世界で、「自分の正義」を振りかざしていると、すぐに「別の正義」とぶつかってしまう。長い目で見たときの「自分の得」を考えたら、正義を追求したり、他者に怒りをぶつけることで得られるものは少ないのです。
