あなたは私であり、私はあなたである

身体の聲 武術から知る古の記憶

 興味深く読んだところです。

 

P210

 武術においては、他者の存在を自分から切り離して排除することはできません。と同時に相手に気をとられ、妥協して関係性を築こうとしても、決してうまくいきません。

 誰しも経験的に知っているのは、自分を省み、観ることを抜きに相手に働きかけようとしてもうまくいかないということです。

 まず自分のほうへ目を向けるには、ある種の自閉性が必要です。

 その上で他者と関係性を築いていく。

 その時初めて外へ向けての作用や働きが生じます。自閉と他者性のせめぎ合いの中で、他者との関係が生じます。関係性は排除と親密のとちらか一方だけ、あるいはうまい具合に二者のバランスをとれば成り立つようなものでもないのです。

 これは現代人が手に入れたがっているコミュニケーション能力を考える上で重要だと思います。

 ことさらそれが取り沙汰されるのは、関係性を持つことの煩わしさをなんとか快適にしたいからでしょう。

 しかも日本には、人に気を遣い配慮することを良しとする文化があるので、コミュニケーションは複雑になりがちです。

 そこに想定や期待されている相手のレスポンスが加わるから面倒です。

 私たちはつい相手からの見返りを期待して、だからその予測を外されると腹を立てるのです。

 どうも私たちは言葉を用いることと気持ちをくっつけすぎています。

 気遣いや配慮が「あなたのためにやったのに、どうして私の気持ちを分かってくれないのか。なぜ思いを返してくれないのか」といったような、回りくどい粘着したものになりがちです。

 そうなるのは、お互い分かり合えない前提で社会で生きているからではなく、「同じ日本人だからどこかで分かるんじゃないか」という期待があるからです。

 ところが武術は自分本位でないと始まりません。

 だからといって、どういう状況であれ配慮しないで自己を貫くわけではありません。ただ「あなたがこうしてくれたら私はこうします」といった忖度はしないだけです。どちらかと言えば、「あなたの存在は認めます、また私も共に存在しています」といった生物多様性を認めるような配慮がスタートラインになります。

 こうなると配慮と呼んでいいのか分かりません。ともかく「存在は認める」というところで済ませておかず、相手にぶら下がったり、もたれかかるような期待を寄せたのでは、武術として成り立ちようがありません。

 武術では価値観の対立から入り、そこから同調性や共感の場にどう立つかが問われます。自分に危害を加える相手ではあっても相対する以上、その存在自体をなかったことにはできません。

 そして、自分から相手を観るだけではなく、相手から自分を省みることも必要です。こうしてこの場で出会うのも何かの深い縁があってのことですし、また自分からすれば相手は敵でも、相手からすればこちらが敵です。

 つまり立合いとは「あなたは私であり、私はあなたである」の地平に立ってからが始まりです。

 自分の気持ち(感情、感覚、心)の釣り合いを静かに観て取れるように内面における立ち位置を捉えていきながら、相手との関係においては「退かず、出ず。譲らず、取らず」から「出てもよし、退いてもよし。譲ってもよし、受け取ってもよし」へと移ろいます。

 攻防の主導権をどちらにも渡すことができる立ち位置にいる者が、一命のかかった立合いにおいては生き残ります。

 お約束の予定調和に終始する武道の稽古や競技武道に慣れている人は主導権を握ったほうが勝つと思うでしょうし、実際にルールや条件を設定すればそうなることもあります。しかし、それは武術の世界においてはそこそこのレベルの戦いの話であり、致死的でない状況が前提の場合にしか通じなくなります。

 生死のかかった立合いにおいては、主導権を握るということは究極の受け身の中動態

のようなものです。というのは、どちらかが死ぬような勝負においては十中八九、先に出たほうが負けるからです。

 最初に動き出すことで自分の形を崩し、相手に自分の方向性を教えてしまうからです。つまり墓穴を掘ってしまうわけです。

 だから主導権を握ろうとせず、持ちつつも居着かず、かといって譲らず、関係性の間に主導権を置いておけるほうが最後は残ります。

 これを武術の世界では「位」と言います。