米を洗う 米菓の縁で紡ぐ岩塚製菓100年の夢

米を洗う 米菓の縁で紡ぐ岩塚製菓100年の夢 (幻冬舎単行本)

 真っ当な生き方だなーと思いながら読みました。

 

P66

 1945年8月の終戦を平石金次郎は、日本海に面した舞鶴海兵団で迎えている。前年11月に召集を受けて入隊することになるが、終戦の秋には故郷岩塚に戻ってきている。35歳であった。同じく槇計作は、1938年に召集を受け中国で3年余り兵役に就いている。1941年に帰国し、終戦は故郷岩塚で迎えている。まだ29歳であった。共に岩塚十楽寺の同じ集落に生まれ、育ち、終戦後、酪農を通じてそのつきあいが始まることになる。・・・

 平石金次郎の父親は零細な農村は農業だけではダメだ、多角経営しなければということで、酪農も手がけていたのだ。牛の世話などで2人は始終行ったり来たりするようになったのである。・・・

 ・・・囲炉裏を囲みながら零細な農業だけでは自立できない、「獲れた農産物を農閑期に加工していけば、出稼ぎに行かなくても何とか村の暮らしは立つのではないか」と2人の想いは徐々に信念に近づいていくことになる。これが彼らにとってのまず始まりの「Why」だったのだ。「どうしてそれをやろうとするのか」「なぜそうしようと思うのか」が、「Why」ということである。それは2人の全くブレのない暮らしの哲学になっていた。そしてその「Why」を実現するために、何をどうしていけばいいのかという「What」や「How」はその後に思索し試行錯誤すればいいのであり、そのために始めたのがイモ飴という商品であり事業であった。

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 その当時の面白いエピソードがある。イモ飴作りを始めた頃に平石家に呉服屋として出入りしていた人の話である。「どうやって金儲けをしようかという話はあちこちで聞いた。しかしお前さん方の話には金儲けのことなんて出てこなかった」と2人に向かって振り返ったことがあったそうだ。そもそもの想いが違っていたのだ。当時は日本中が品物不足で、特に都会では食料が不足していた。・・・そんな人たちにとっても、平石と槇の想いはある意味理解を超えた浮世離れしたものに聞こえたのであろう。ただ、彼ら2人が始めたイモ飴作りは、同じ集落の中にも広がっていくことになり、そのうち岩塚はどこも飴炊き場になっていったそうだ。しかし平石と槇、岩塚農産加工場だけはその他大勢がやっていたこととは違っていた。

「皆さんがやった仕事と私どものやったことには大きな違いがあるんです。皆さんは利益でミシンや晴れ着を買ったり、家の普請などと個人的にみんな遣ってしまった。多少利益があっても、これを産業に仕立てあげたいという目的があったから、全部先行投資に回して、個人的にはだんだん貧乏になってきた。あの当時の家の暮らしなんか、悲惨極まるものだったよね」と槇計作は笑い話のように語っている。

 また1950年頃には、飴の物品税を税務署から追徴されることになってしまう。「あの当時は家中、箪笥から何から全部差し押さえの札をぺたぺた貼られた」と、後日談だから笑いながら槇計作は振り返っている。「地域と共に生きる」という理想があるからイモ飴作りから撤退することになっても、また次に悪戦苦闘しながらも米菓へのチャレンジをすることができたのである。

 

P131

 逆境にこそ次に向けてのチャンスがあるのだと言葉にするのはたやすい。だがどうやって良薬にしていけばいいのか。

 槇計作は思い切った手を打つ。1986年自ら社長を辞すことにした。70歳である。会長にはなるが経営の第一線からは引いてしまう。「世の中はめまぐるしいスピードで変わっていく。こんな時に老人が旗振りしていたのでは会社はとんでもないことになる……と気がついて」としか、その時の思いは残していない。跡を継いで第3代の社長についたのが丸山智だ。1960年代に新しい開発に悪戦苦闘している時に、その頭上に偶然の神が二度微笑むことになった丸山である。

 これまで常識だと思っていたことを捨てること、これが「逆境」の岩塚製菓の新しい課題だ。何から手をつけていけばいいのかは、案外シンプルだった。この危機に露呈していたことの正反対のことをやっていけばいいのではないか。肝要なポイントはたった1つだった。「在庫」を持たない生産・加工プロセスをどのようにすれば実現できるのかということに尽きる。

 別の言葉に置き直すと「必要な時に、必要なものが、必要な量、必要な場所」にあればいいということだ。「ジャスト・イン・タイム」ということがどのようにすれば徹底できるのか。たとえば今日出荷配送されなければならない「味しらべ」の計画予定数量が仮に10キロだとする。その完成商品の数量に必要な量がどのくらいなのかは明確である。そしてその生産加工に必要な米粉の量も明確である。だからその日必要な洗米、浸漬される原料米はどれだけかも明らかである。

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 当然、出荷予定数量が変更になる場合もあり、その変更情報は順次前工程へと戻されていくことになる。どこかのプロセスに不良があったり故障があったりと変更要素が常に加わるのが、日常的な製造ラインの現場だ。その変更指示が後工程から「かんばん」に書かれて前工程へ送られてくる。この「かんばん」の情報がそれぞれの工程別の着工指示になる。もちろんさらに複雑な要素が加味されながら「ジャスト・イン・タイム」が徹底されていく。

 これは「かんばん」方式という呼ばれ方をするが、トヨタ生産方式という1つのメソッドである。1986年以降、岩塚製菓の工場ではこの「かんばん」方式を徹底的に実践して身につけていく。

 

P185

 中越地震から始まって次々と襲いかかってくる危機は、まさに逆境の常態化であるが、これらは外部要因、外圧として訪れてきたものだ。ある意味、避けようのない逆境ということかもしれないが、そのたびに乗りこえてきた山である。ところが、これらの外圧的な試練が続いていく時期にあわせるようにして、実は内在的な課題が襲ってきていた。・・・

 この病の正体は一言でいってしまえばデフレの進行である。・・・販売価格の下落に始まり逆に販売管理費などの上昇で、売り上げが伸びないばかりかほとんど利益が出せない状態が続いていくことになる。・・・消費者にとっては「安い」ということは、その時その時ではありがたいものである。だが、それは市場全体の持続性からみればいびつな状態を進行させていくことになる。

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 ここで旺旺集団が力を発揮することになる。中国大陸全土で良質な原材料を調達している旺旺だからこそ、頼りがいがあるといっていい。・・・岩塚はこの地で収穫される米を原材料として利用する目的で、2002年に中国東北部の入口にあたる瀋陽米粉加工工場を設立する。岩塚が90%出資し旺旺と共同で瀋陽岩旺米粉製造有限公司を設立する。

 旺旺との協働で、このデフレの危機に対応していくことになるのだが、本当にこの選択だけでいいのだろうか。競合メーカーと同じ土俵に立つことにはなるが、本当はもっと大切なことがあるのではないか。槇春夫は常に心の奥底で煩悶していた。

 単にデフレに対応しているだけではないのか。本当に岩塚製菓としてほかに選択の道はないのか。ここで槇春夫は思い切った決断をすることになる。

 グローバル調達の加速という大勢の流れとは逆方向にかじを切ったのである。営業赤字状態の真っ只中の2011年に一部商品からではあったが「国産米100%」へと切りかえていく。3年後の2014年には岩塚製菓の全商品を「国産米100%」へと切りかえる。そして、すべての商品に「国産米100%」と表示し、不退転の決意を示したのである。

 デフレ対応という波に呑みこまれるのではなく、自分たち独自の立ち位置をさし示したのだ。まさに「岩塚オリジン」である。

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 その後「国産米100%」の選択は「日本のお米100%」と表現を変え継続されていく。2021年現在、日本の米菓メーカー上位10社の中でこれを選択しているのは他に1社あるだけだ。生産規模の大きいメーカーでは唯一、岩塚製菓だけといえる。

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 グローバル調達ということでコスト適地を求めて食の原材料が日本を離脱していってしまっている。米もそうなっていくことがさらに進んでしまえば、耕作環境が荒れ、地域社会が崩れ、地域の暮らしが成り立たなくなってしまう。デフレ対応としてグローバル調達を行い岩塚製菓は生き残ったとしても、地域社会が崩壊してしまえば何の価値もないではないか。「地域と共に生きる」という岩塚製菓にできることが、「国産米100%」の選択だったのだ。この決断には槇春夫に受け継がれた岩塚人としての気骨がある。