空海さんの言葉 心がフッと軽くなる49の智慧

空海さんの言葉 心がフッと軽くなる49の智慧 (徳間文庫)

 文庫になる前のものを読んだような気がするのですが、改めて大事だなと思う言葉がたくさんありました。

 

P26

 仏教にはさまざまな教えの種類がありますが、その根底には、日常、私たちが普通に感じている「私」というものへの「疑い」の目線があるように感じます。「私」というものは「幻のようなもの」という教えを受けたこともあります。ところがこの「私」というものを、大切に用いる智慧も同時に示されるのです。

「たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の最高の目的を知って、自分のつとめに専念せよ」(『ウダーナヴァルガ』第二三章一〇)

 

P41

 法は本より言なれども、

 言にあらざれば顕はれず。

 真如は色を絶すれども、

 色を持ってすなはち悟る。  弘法大師 空海『請来目録』

 ・・・

 この言葉の中で空海は、「真理」と呼ばれるような深い場所にある「本当のこと」は、本来言葉とは違うものだけれど同時に言葉にしなければ、それを表すこともできない、と語っています。

 言葉の限界を知りながら、言葉だからできることを知る。この考え方は、弘法大師が「色や形あるもの」というテーマに話を展開させていることからわかるように、あらゆることにつながった考え方です。様々な存在の「限界」と「できること」を知る、何度も思い出す言葉です。

 

P46

 今、向かい合っている人や物、状況を、自分は知らず知らず「正確」に見ているものだと思いこんでしまうことがあります。しかしよく考えてみると自分の心の状態によって、同じものがまったく違う存在に見えているはずです。

 ・・・

 私たちが経験するすべてのことは、「実際に起こっていること」と「私の心」のコラボレーション(共同作業)です。だから、「私の心」の側を少しでも変化させることで、同じと思われた事柄、風景、人物が変わりはじめます。その「変化」を〝楽しむ〟〝味わう〟ような好奇心は、意外に仏教的な心と言えます。

 

P49

「正しいこと」も「正しくないこと」も

等しく如来の説法であり、

他人と自分の区別は消え去ってしまう。

 ・・・

 私たちが生きている日常世界では、色々な対極的なことを、きっちりと〝分ける〟場面が多いです。それは「正」と「悪」、「心」と「身体」、「生」と「死」、「見える」ものと「見えない」ものなど、あらゆるものがそうでしょう。それらを、きっちり分けて考えないことには、スムーズに生活や仕事を進めることが困難に思えます。

 しかし、ここでいったん足を止めて、腹の底から感じてみましょう。そういった分別は、自分たち自身が作り出しているに過ぎないということをです。ここで弘法大師は、「正しいこと」も「正しくないこと」も「如来の説法」だと言われ、他人も自分もない世界を示唆します。普段、あらゆることを「合理的」に「両極端」に〝分けて〟考える私たちの思考回路がすべてではないと頭が広がったり、ゆるんだりしていることを感じました。

 

P84

「〝仏教をひと言で言うと何でしょう?〟そういう質問をされて、困っちゃったよ……」お坊さんとお話ししていて、そんな話になることがたまにあります。しかし、うれしいことに、弘法大師が「ひと言」で仏教を表した言葉がありました。

 この言葉によると、仏教(釈尊の教え)とは、「自利利他」つまり、自分と他人をともに利することを両立させることにあると説いています。「自分の利益」と「他者の利益」は、一致しないことが多いと感じる人も多いと思いますが、じっくり考えると、はたしてそうでしょうか?

 他者にとって「うれしいこと」が自分にとっても「うれしいこと」であることが、丹念に探せばいくつも見つかるはずです。そしてその「うれしさ」は、とてもパワフルなうれしさです。

 

P89

 ・・・仏教においては、「慈悲」の精神からの行為が大事にされます。しかし、一般的にみて「いいこと」をしていると、無意識に「見返り」を求めてしまうことが、本当に多いのです。「いいこと」をしたから感謝してほしい、「いいこと」をしたからこんなことをしてほしい……。・・・

 仏教における「慈悲」の行いは、必ず「見返り」を求めないことだと師から伝えられました。そのスタンスは私たち自身を、強く守ってくれるはずです。そして気が楽です。

 名誉とお金が気になることは、どうしてもあります。しかし、時には、それを抜きにして、取り組めること、取り組みたいことにも目を向けてみてください。そこにも、たしかな「幸せ」の種があるようです。

 

P163

 河を前にして水を見ているのに、

 まだ火が燃えさかっているかと思い 

 仏身のうちにも地獄を見出し 

 七種の宝玉に対しても 

 その宝玉であることに気がつかない。

 ・・・

 弘法大師が繰り返し述べる「人間は、ありのままを見ることができていない」という言葉のひとつです。ここでは、別の角度から「本当は目の前にある宝に気づかず、正反対のものに見える」ことを指摘しています。

 ・・・

「自分の心ひとつで、対象が変わって(あるいは正確に)見え始める」ということ・・・そこで大切なのは、時には誰でもない「自分の気持ち」をもっと意識的に感じることです。それが、現代においてさらに必要になってきているのを感じるのです。社会の中で多くの人が指をさし、火や地獄と呼んでいるものは、本当にそうなのか。世の中で「宝」と言われているものは、本当にすばらしいものなのだろうか。まっさらな心で感じる癖をつけてみてください。・・・

 

P181

「世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を『最上のもの』であると考えて、それよりも他の見解はすべて『つまらないものである』と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない」(『スッタニパータ』七九六)

 ・・・古いこのブッダの言葉を見ても、〝自分の信じる道を展開すること〟と〝他者を認めること〟の同時進行はとても大切です。

 時に「自分の道を進むこと」は、大切です。しかしそれが、正確性を欠いた「無用な批判」につながっていないか、気をつけておきましょう。

 

P206

 「般若心経」というお経でも説かれているのが、ここで登場する「空」のことです。・・・

 ・・・「空」は〝私〟も〝あらゆるもの〟も、さまざまな他の原因から生じていて、「本当は、それオリジナルの固定された実体なんて持っていないよ」ということです。「〝私〟は、ある意味で幻のようでもあります」と師から伝えられたことがあります。

 しかし、その大いなる「空」というものを、「大いなる自由自在」であり「大いなる私」との出会いのようなものなんだとダイナミックに語りかけるのは、とても空海らしく、勇気をいただける言葉です。・・・

「私」というのは、もっと大きなものかもしれないし、普段、私たちが感じているような「はっきりとした」ものでは、ないのかもしれない。そのことを深く胸に納めた時、空海のいう「大自在」が開けてくるのでしょうね。

 

P218

 空海の言葉にふれていると、時々、大事なところで「楽」や「遊」という字が出てきて、なんだかほっとすることがあります。

 ・・・弘法大師が「早く楽しさにあふれた、覚りの道を遊ぼう」と呼びかける言葉は、現代に生きる私達にとっても、大きな開放感を感じさせます。

 皆さんも、様々な複雑な悩みを抱え、どのような道を進むか迷うことも多いと思います。そのような時、ぜひもう一度、「どうすれば本当の意味で、自分は少しでも楽しいのだろう」という問いかけをしてください。・・・

 

P228

 最後に、この言葉を皆さんで一緒にお唱えしましょう。

「六道の迷いの世界の生きとし生けるものも、四生の流転の生きものも、みな父母であり、飛ぶ小虫、蠢く虫けら、何ひとつ仏性を具えないものはない(現代語訳)」・・・(弘法大師 空海『続遍照発揮性霊集補闕鈔』巻第九)

 

「怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むことなく、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあっても怨むことなく、われわれは暮らしてゆこう」(『ダンマパダ』一九七)