三行で撃つ <善く、生きる>ための文章塾

三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾

 近藤康太郎さんの文章塾、なるほどと思うとともに、文章のプロになるって大変なことだなと・・・

 

P30

「うまい」とはなんでしょうか。初心者向けのホップでは、もう、投げやり気味に簡単に結論を出してしまいます。

 うまい文章とは、分かりやすい文章である。

 分かりやすいとは、書き手のいいたいことが、誤解されずに読者に伝わる文章とでもしておきましょう。

 ここでは、その逆、分かりにくい文章の傑作をひとつ揚げます。会社の会合で、幹事からこんなメールが来たらどうでしょうね。

 

「あ、すみません。時間に関しては前々回の訂正の部分がやっぱり正解で、日にちについてはその次の連絡が正しい日時です」

「あ、すみません。やっぱり間違っていて直近の訂正が正解ということがわかりました。ただし、皆様に送ったメールに時間差があり、前回分と前々回分というのが人によって異なる可能性あるのでご注意ください。一斉送信したのですが、あとから決まったメンバーの分は後から送りましたので、その人にとってそれは初回です」

             (町田康『人生パンク道場』)

 

 大笑いです。ここまで分かりにくいと、芸術ですね。「わたしは宴会の幹事など、よく雑事を押しつけられる。どうしたらいいでしょう?」という読者の悩み相談に、言葉の魔術師・町田さんが大まじめに答えている文章です。使えない幹事を演じて撃退しろ。発想といい、文章といい、最高でしかありません。

 つまり、わたしたちは、この分かりにくい文章アートの、逆をすればいいのです。

 その原則は三つだけ。

① 文章は短くする。

② 形容語と被形容語はなるべく近づける。

③ 一つの文に、主語と述語はひとつずつ。

 

P52

 わが家に集まる塾生たちに、いちばん最初に教えるのは、「常套句をなくせ」ということです。

 ・・・

 常套句とは、定型、クリシェ、決まり文句です。

 たとえば、秋の青空を「抜けるように青い空」とは、だれもが一回くらいは書きそうになる表現です。・・・

 新聞記者は一年目、二年目といった新人のころ、高校野球を担当させられるので、高校野球の記事は常套句の宝庫(?)です。

 試合に負けた選手は「唇をかむ」し、全力を出し切って「胸を張り」、来年に向けて練習しようと「前を向く」ものです。一方、「目を輝かせた」勝利チームの選手は、「喜びを爆発」させ、その姿に「スタンドを埋めた」観客は「沸いた」。

 常套句を使うとなぜいけないのか。あたりまえですが、文章が常套的になるからです。ありきたりな表現になるからです。

 しかし、それよりもよほど罪深いのは、常套句はものの見方を常套的にさせる。世界の切り取り方を、他人の頭に頼るようにすることなんです。

 ・・・

 ・・・「抜けるように青い空」と書いた時点で、その人は、空を観察しなくなる。空なんか見ちゃいないんです。他人の目で空を見て、「こういうのを抜けるような青空と表現するんだろうな」と他人の頭で感じているだけなんです。

 

P239

 ミケランゼロであったか、彫像をほり終えた時、その依頼者が下見にきた。そして少しその像の鼻が高すぎると難をつけた。

 ミケランゼロは、一握の大理石の砂をひそかに握って、足場を昇り、あたかも、その鼻をけずるかのようなしぐさで槌を動かせて、少しずつ、その大理石の砂を掌からおとしていったのである。(略)

 依頼者は「ああ、具合よくなった」といって、得々として帰っていったという。

               (中井正一「一握の大理石の砂」)

 ・・・

 編集者の言うことは聞け。

 聞いて、聞くな。

 ミケランジェロにとっては、この依頼人が編集者であったろう。・・・

 ・・・

 聞いて、聞かない。

 一握の大理石の砂をひそかに握って、文章に向かい、文章を直す。

 編集者が、たとえば語句の一つひとつを難じて注文するのは、まれだ。そうではなく、たいていは「鼻が高すぎる」と言ってくる。「この辺がわかりづらい」「抽象的だからもっと具体的に」などと、それこそ「抽象的」に注文してくる。

 その注文を、いったんは聞く。聞いて、聞かない。それ以上のものを出す。

 いい編集者ならば、自分の注文通りの直しがきたら、むしろ落胆するものだ。その注文の上をいかなければならない。

 ・・・

 先に引用したミケランジェロの鼻で、文章は、次のように続く。

 

 この像の作者は、この鼻を打ち壊してしまうのも一つの方法でありまた決してその鼻に手を加えないと言いきることも一つの方法である。しかし、どうして、この大理石の砂をもって足場を、彼が昇っていったのであろうか。(略)

 人類全体が、今、愚劣なのではあるまいかという怖ろしいような認識である。(略)

 そして、今、この愚劣なものよりほかに、人類がなかったとしたならば、私は一握の大理石の砂をもって、足場を昇るよりほかに道がないではないか、そして、その鼻の美しさを守り、人類が、その美しい鼻を、ほんとうに自分のものだと思う日を待たなくてはならないではないか。

              (前掲同書)