こんなふうに、暮らしと人を書いてきた つづき

こんなふうに、暮らしと人を書いてきた

 たりたり問題、たしかに・・・文章のルールって、そうだったの?というの、あるなーと思いました。

 

P87

 ライターになってもっとも痛感したのは、自分はいかに言葉を知らないかということである。それまで、いくらか人より本を読んでいるし、知っている方だと大きな勘違いをしていた。今も日々、無知に気づかされることの連続である。

 たとえば「たりたり問題」。

「~をしたり」のあとは必ず「~たり」が続かねばならない。「気を使ったりはしないのですか」は、文法上間違いである。恥ずかしながらこの文法を知らなかった。

「東京の台所」(朝日新聞デジタル)の連載は、担当者が新聞記者であるためか、とりわけ文法や用法に厳しい。たりたりも、担当者の指摘で知り、恥をさらすとつい最近も「彼は天に召された」と書いたら、それはキリスト教用語であり「神に召される」からきている、亡くなった方や大平さんはキリスト教信者ですかと、赤字が入った。全く気づかず、雰囲気で常套句のように使いまわしていた。ああ、書き出すだけでこっぱずかしい。

 赤字をもらうたび、私は急いで、「間違いやすい用語」という名前をつけた自分のテキストファイルに書き加える。そこからメモの一部を抽出すると。

 

「追及」=<追い詰める>疑惑・責任・余罪を追及、容疑者を追及

「追求」=<追い求める>利益・利潤を追求、真実・理想を追求

「追究」=<探って明らかにしようとする>学問・原因・真理・本質を追究

 

「怖い話を」……名詞のときは「し」が入らない

「そうお話しくださった」……動詞のときは「し」が入る

 

 右記のようなメモが連なるテキストが現在二十三ページ。それだけ間違えてきた、私の恥の履歴である。

 ファイルの中に、ひとつだけ赤字にした注意書きがある。とくに「大切」にしている赤字だ。

 

「大切」には「個人的な愛情や思い入れが含まれる」

「大事」には「気持ちは入っていないが重要なこと」

 

 大切な人、大切な思い出、大事な会議、大事なルール。そんな使い分けはとうに知っているという方は読み飛ばしていただきたい。私は、どう違うんだろうとモヤモヤしながら適当に書いていた。

 指摘によって霧が晴れ、たいせつという言葉がこれまでにはない感覚で清らかに胸に響くようになった。

 そういえば編プロのボスは、このふたつを原稿に乱用するなとよく諭した。

「大切という言葉を使わず、いかに大切かを書くのがライターの仕事だよ」

 だから、どうしてもやむを得ないときにしか使わない。たしかに、不思議と「大切なことだ」と書くたび、大切さが薄まる。便利で手垢の付いた言葉ほど心に迫らないものだ。

 

P182

 音楽家の知人から弦楽四重奏の鑑賞会に誘われた。会場は吉村順三設計の個人宅だという。・・・

 珍しい会場に興味を持ち、覗いたウェブサイトによると、現在は有形文化財として登録、所有者が時折コンサートに貸すなどしている。その記述の中にこんな言葉があった。「レス・イズ・モア」。

 世界的建築家ミース・ファン・デル・ローエが提唱した言葉で、「少ないことは豊かなこと」と訳せる。吉村順三の設計したその家にも、この考え方が見事に具現化されているらしい。・・・

 ああ、文章と同じだなと思った。

 書き手によるが、私は、文章はわかりやすくて、できるだけ短いほうが良いと考えている。かとって、「今日は晴れて嬉しいです」では、子どもの作文だ。同じ文字数で、世界の誰も表現していないようなオリジナルの伝え方をしなければ、人に読んでいただく作品にはならない。

 じつはこれ、高い技術が必要で、私はまだまだ修業中だ。

 難解なものは嚙み砕かずそのまま提示するほうが、ずっと楽なのである。だが、読者には伝わらない。井上ひさしの言葉にもあるように、〝難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く〟書くのは、大変難しい。

 ・・・

 建築も文章も、ひいては暮らしも、レス・イズ・モアが美しい。少なくとも私は、そういう仕事を目指したい。