女子の古本屋

女子の古本屋 (ちくま文庫)

 古本屋さんを開いている女性の、開店にいたるまでのお話が載っている本です。

 どの方もユニークで、ぐんぐん読み進んでしまいました。

 

P52

 仙台の古書カフェ「book cafe/火星の庭」には、その奇抜な店名とともに、訪ねる前から強い印象を持っていた。・・・訪れた人の報告を聞くと、並べた本も骨太なところがあり、なによりも真摯な印象を抱いて店を後にしてくるようだった。・・・

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 取材が始まって、百二十分テープの片面がとうに折り返しているのに、前野さんの口からは「火星の庭」の「か」の字もまだ出てこない。・・・「わたしの人生って、どうしても全部話してしまわないと、途中を端折れないんですよね」と笑った。

 たしかにそうだ。まだ三十代半ばにして、前野さんのこれまでは「端折れない」人生だった。・・・

 前野(旧姓・長谷川)久美子さんは、一九六九年二月二十三日福島県郡山市の生まれ。父は大工だった。・・・

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 小さいときから本好きで、本さえ読んでいれば幸せというような子どもだった。図書館の本は借り尽し、中学校、高校と本屋に入り浸っていた。・・・

「郡山の駅前に東北書店という、そのころではわりに大きい本屋がありまして、いまでもありますが(その後、閉店)、休みになると、ここに朝十時の開店から、閉店の七時までずっと居続けたんです。立ち読みで、何冊も読み終えて、帰りになにか文庫を一冊買って帰るという。ほんと、書店にしたら迷惑ですよね」

 ところが、父親が小遣いをくれない人だった。しかし、どうしても本は欲しい。そこで本代は小学校のころから自分で稼いだという。いったい、小学生がどうやって……。

 聞くと、手芸でキーホルダーやフェルトの人形を作っては同級生に売ったというのである。それで本を買う小遣いを自分で稼ぎ出した。

「編物ができるようになると、自分で手編みのセーターを編んで、それを友だちん家に着ていきました。友だちの母親がそれを見て『あら、いいわねえ。へえ、自分で編んだの。えらいわねえ。カーディガンなんかも編めるかしら』と言ったらこっちのもので、さっそくカーディガンを編んで編み賃を五千円ぐらいもらったり……へへへ」

 ・・・そのころから「働くのが大好き。なにか仕事をしていないと落ち着かない体質」の女の子だった。

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 ・・・前野さんは料理が得意だったことから調理師学校へ通うようになる。・・・

 ところが、就職先として選んだ場所が、なんというか、やっぱり文学の毒が回っているとしか言いようがない。

「太宰の『津軽』が好きで、一度は太宰の生家『斜陽館』(この頃は旅館となっていた)を訪れたいと思ってたんです。行ってみると、なんにもない辺鄙な町で、ショック、五千人くらいしか住んでいないんですね。でも『斜陽館』をひと目見て、わたしが働くところはここしかない、と、その場で『働かせてください』と志願したんです。斜陽館の人も困ったと思います。いきなり若い娘が。いちおう身元を聞かれて、親の了解を得たらということでOKをもらいました。でも、うちの父親に了解を得られるわけがない。得たことにして住み込みで働き始めたんです」

 太宰の生家に寝泊まりできる、と心をときめかせたが、従業員の宿舎は別棟のプレハブ。・・・月給はどんなに働いても七万五千円。しかも一日五百円の食費を差し引かれた。しかし、お金を使う場所なんかどこにもないのだ。そんな安い給金が、一年で六十万円も貯まった。

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「本屋で『anan』を買ったら、六本木で京料理の店がオープンする記事を見つけたんです。読んでいるうちに、何か魅かれるものがありまして、すぐに青森から電話を店にかけたんです。雇ってほしい、って。本当は求人はしてなかったんですけど、いろいろ喋っているうちに、じゃあ一度会いましょうって」

 それからの行動は早い。すぐに夜行バスに乗って翌日の夕方にはもう六本木に着いていた。店のオーナーでもある女将は「本当に来たの!」と驚いた。前野さんの手には、お土産に「田酒」という青森の地酒の一升瓶がぶら下がっていて、即採用。・・・この店は、やり手の女将が切り回していたが、かねがね自分の右腕をと考えていた。・・・前野さんには、初対面の相手の警戒心を一瞬にして解く力があるらしく、ほとんどもうこのとき、女将は「この娘はものになる」と見込んでしまったようだった。

 すぐに赤坂九丁目の高層マンションの一室を貸し与えられて、六本木の店をほとんどまかされるようになった。これが平成元年、前野さんは東京で二十歳を迎えた。

「私には『やりたい』がないんです。『やる』しかない。『やる』といったん決めたら、どんなことをしても『やる』。それだけなんです」と前野さんは語る。・・・

 朝五時には築地の場内市場へ買い出し。・・・店には朝六時に入り、夜の十二時まで働きづめ。部屋に帰るのは深夜二時になる。

「ちょうどバブルのまっただ中で、店にはテレビ局やマガジンハウスを始めとする雑誌社の人、それにテレビでしか見たことのないような女優さんが次々と現れました。毎日が夢を見るように過ぎていって、ほとんど寝る間もなかったんですが平気だったんですね」

 ・・・それから一年、すっかり女将っぽい雰囲気が身についたころ、前野さんの「違う世界をみたい」病が始まる。店にお客として来ていたキッコーマン本社の幹部が、ちらりとドイツの同社直営の料理店で調理師を探していると漏らした。・・・

 ここまで書けばおわかりだろう。そう、前野さんはドイツに行ってしまうのだ。・・・

 青森から東京・六本木、そしてドイツへ。・・・労働組合がしっかりしているドイツでは、一日八時間以上は働かず、週休三日、年に二ヵ月の長期休暇があった。これを利用して、安いパックを見つけては、オランダ、スペイン、アフリカと旅行をする。・・・

「いろんな国を見るようになってから、ヨーロッパ社会があまりに完成され過ぎているな、と感じるようになりました。例えばキリスト教一つとっても、そこには疑いがない。疑う構造がない、と言ってもいい。逆にそこに私は疑いを持った、というか。そうして今度は外から日本を見ると、日本人には信仰心は薄いかもしれないけど、日本人にしかない感性もある。日本という国を見直すようになったんです」

 結局、帰国して仙台駅の駅前に立った時、前野さんにはその先、何のあてもなかった。・・・前野久美子まだ二十三歳。・・・もう二回ぐらい人生をやり尽くしたような感じだった。

 あまりにめまぐるしい跳躍続きの明け暮れが心身に過剰な負担をかけたのか、このあと一ヵ月ぐらい失語症にかかった。・・・

 前野さんは「荒療治」という言葉を使ったが、気の抜けたビールみたいな自分に活を入れようと、なんと仙台市内K町でホステスになる。和服に身を包み、お酒を飲み、いやでも人と喋らなくてはならない。これぞ荒療治だが、少々荒っぽすぎたのか、ある日身体に激痛が走り入院。・・・病院で受けたホルモン療法に疑問を抱き、自然療法に関心を持ちはじめる。

 退院後に就いた職が、ニューエイジ系の書籍を出版する「カタツムリ社」という会社だった。・・・

「知らなかった世界がまたどんどん広がっていく。またたくまに二十代が過ぎていきました。そして夫と知り合ったんです」

 お待たせしました。現在、「火星の庭」を一緒にきりもりするパートナーである健一さんと出会い、半年有効の航空券のチケットを買って、二人でヨーロッパ十数ヵ国を巡る旅に出る。ここでかなりの数のブックカフェと巡り会う。・・・

 帰国した時、夫婦ともに身分はフリーター。ここでまたいろいろあるのだが、なおもフィルムを早回しして、「ヴィレッジヴァンガード」仙台店に就職するところまで話を持っていく。・・・

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 前野さんは「ヴィレッジヴァンガード」仙台店の書籍部門をまかされる。一年たった時、郊外に移転するが、気の合わないオーナーに代わって前野さんはまたもや職を失う。というか、ケンカしてやめたのだ。・・・

 ヨーロッパの街角で、ひとときの慰安を得たブックカフェを自分でもやってみよう。決めたら行動は素早い。・・・やると決めてから、たった四ヵ月で開店にこぎつけた。

 店の半分は古本屋、あと半分がカフェスペースで、・・・

 ・・・国産小麦天然酵母のパンで作ったトースト、タコライス、セイロンカレーなど、すべて一から手づくりのものを出している。ふりかえれば内外で調理師をし、海外放浪もした、水商売も編集者も経験し、ユニークな新刊書店にも勤めた。前野さんはいま、こう考える。

「そうしてみると、十八の歳から今までが、ずっと『火星の庭』を始めるための長い準備期間だったように思えるんです」