横尾忠則さんの人生相談、読んでいると気持ちが落ち着きます。
P20
残りの人生、日記をつけたいと思っているのですが、いつも三日坊主です。日記を続ける秘訣はありませんか?
日記をつけたいと思ったら、そのときに日記をつける。それ以外に秘訣はありません。たとえ三日坊主でもいいじゃないですか。三日でやめても、いちおう日記をつけたという体験と記憶は残り、それが蘇って、今度こそは長続きさせるぞ、と再び日記に挑戦するかもしれません。ほんとうに気になることは、何度も反復して同じ気持ちが起こります。そのうち、いつか本格的に日記を書くようになります。
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・・・僕なんか日記を面白くするために、わざとどこかへ行って、その経験をエッセイのように書くこともあります。記録のためではなく、日記を面白くするために、日記のために生きてみようとなると、もう日記と人生が一体化して、他のことより、日記をつけること自体が嬉しく、愉しくなってきます。なんだったら僕の日記を読んでみてください。すでに十冊以上出ています。
P48
人間には、宿命と同時に運命があります。宿命は、前世から定まっている運命といえます。運命は人の意志を超越しています。だから、自分の意志で何か行おうとしても運命の力のほうが強く、その力によって幸や不幸がもたらされます。
だけど、その運命に逆らって抵抗する人もいます。そうすることによって運命の主役になろうとします。僕はどちらかというと面倒くさいことはしたくないので、与えられた運命にまかせるというか、従っちゃいます。・・・
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・・・つまり、与えられた状況をそのまま受け入れる生き方です。ですから、未来に対するビジョンなどはありません。なるようになると肯定するのです。未来に何が僕を待ち構えているのか分かりません。運命のみぞ知る、という生き方です。・・・
それが老齢になると、ますます人まかせ、運命まかせになってしまいました。そして、その運命の範囲で遊べばいいのではないかと思うのです。運命を愉しめばいいのです。
・・・運命に逆らっても、従っても、最後は死なのです。さあ、あなたはどちらを選ばれるか、それはあなた次第ということになるでしょうね。
P72
・・・人は死ぬために生まれてきたのです。だったら生まれなきゃよかったと思いますよね。そのとおりです。生まれなきゃよかったのです。でも、生まれさせられるのです。誰がそうさせるのですか?それは魂がそう決めるのです。自分の意志や想いが決めるわけではありません。魂は「私」であると同時に「私」ではないのです。魂というのは、私から離れた宇宙的存在です。宇宙のシステムのなかで存在しているのが、どうも魂ではないかと思うのです。
P76
「ほんとうに友だちは必要ですか?」と聞かれたのですが、答えに詰まってしまいました。横尾さんはどうお考えでしょう。
友だちは必要だと思います。自分に利益を与える友だちというより、相手のために親身になれる友だちが必要だと思いますが、そうした関係を結ぶのは難しいですよね。
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僕には、一人、同業者の友だちがいました。同年齢ですが、学校の同級生ではありません。彼はイラストレーターで、育った環境はかなり違います。
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彼はデビューと同時に評価される存在でしたが、僕の場合は独学ということもあり、どこかレールから外れた存在で、一部の評論家からは無視され苦水を飲まされたこともありました。そうしたなか、大勢の仲間の前で、彼は僕の作品を非常に高く評価して、反対意見を言う人たちに立ち向かい戦ってくれました。自身の利益にはまったくならないにもかかわらず、当時、仕事のなかった僕に、本来なら彼がやるべき仕事を与えてくれました。この仕事によって、僕は高い評価を得ることになるのですが、・・・そのことを彼は大層喜んでくれました。
このような関係は、同業者の間では滅多にないことだと思います。僕の人生のなかで、彼の存在は特別なもので、・・・僕は彼に永遠の友情を抱いていますが、テレて自分の本心を伝えられないまま、お別れになってしまいました。その彼とはイラストレーターの和田誠です。彼のような友だちを持てたのは、なんだか運命のように思えてなりません。
P100
人間がこの世で行うすべてが、遊びを源泉にして成立しているのです。さあ、残された人生をめいっぱい遊んでください。
P220
ちょうど今(二〇二三年秋)、東京国立博物館で個展が始まりました。テーマは寒山拾得で、百二点を描き下ろしました。大きな展示を達成するとよく、「次の目標はなんですか?」といった質問を受けるのですが、目標なんて持ってしまったら、それこそ僕は、誰かに人生相談をしなければならなくなってしまいます。目標や目的を持った瞬間から、その人は縛られてしまう。つまり自由ではなくなるのです。目標や目的のために自由を犠牲にしてしまっては、悩みが増すばかりです。
では、それらを持たずに、どうやって大きな仕事を成し遂げてこられたのですかと問われると、それはやはり、運命を受け入れてきたからということに尽きるでしょう。ならば悩みはすべて、運命を受け入れことで解決するのかというと、そういうことでもないようなので、僕は無責任に、あれこれと回答しています。そのため本書には、全編にわたって無責任さが通底しています。富士山の麓を流れる伏流水のように無責任さが底に流れ、ときどきポコッと地表に姿をあらわしたものが文章になったという感じです。しかし、そんな無責任さの結果によって、悩みが流れ、浄化することができたとしたら、それは回答した甲斐があったというものです。