先生!どうやって死んだらいいですか?

先生! どうやって死んだらいいですか?

 生老病死ならぬ性老病死について、伊藤比呂美さんが山折哲雄さんに質問する形の対談本です。

 

P187

山折 さて、ここまで日本人の死に方を見てきたわけだけど、「死生観」という言葉があるでしょう。この言葉には重要な意味が隠されているんです。それは、「生」に先立って「死」が頭に来ていること。

伊藤 生死観じゃなくて死生観。死が先なんですね。

山折 死が先に来ていることの含意は、死ぬことが則ち生きることであるということ。つまり、死ぬことを引き受けることが、生きることにほかならない―死生観という言葉には、こういう考え方があるわけです。あるいは、生きることは必然的に死を含んでいる、と言えばいいかな。われわれは、日常的に死とともに生きているんだという感覚であり価値観ですよね。

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 こういう言葉はヨーロッパの言語にはありません。・・・彼らがひと言で表現するとすれば、「デス」にあたる言葉しかない。だから言葉を補って、デス・エデュケーションと言ったり、デス・スタディと言ったりするわけで、それを日本語に訳すときに死生学とか死生観と言っているわけです。

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 彼らの頭の中には、生の世界とは完全に切り離された「デス」の世界しかないわけですよ。

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伊藤 確かに日本の場合は、生と死は裏腹ですからね。というか、日本の文化に生まれ育っているせいか、生と死は裏腹のはずで、切り離して考えられないんですが。ほかに日本のような死生観をもつ国はないんですか?

山折 日本人の死生観は日本列島に独特のものだと思いますね。

伊藤 それは発酵のせい?

山折 そう。モンスーン風土においては、すべてのものが腐敗します。人間も腐敗、発酵を経て白骨化し、それによって純粋なものが得られる。そこに生まれたのが、日本人の死生観であり遺骨信仰だと考えられます。

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伊藤 では、先生は浄土にどんなイメージをもっていらっしゃいます?

山折 行ったことないからのう(笑)。

伊藤 ははは(笑)。石牟礼道子さんがね、前に『死を想う』という本で対談したんですけど、私が同じようなことお聞きしましたら、「死んでみなきゃ分かりませんよ」っておっしゃいましたよ(笑)。そうですよね。でもあっちに行っちゃった人には聞けないし。

 最近いろんなところで、「死ぬ」のかわりに「天国に行く」っていう言葉が使われてませんか。なんか違うだろうと思うんですけどね。

山折 違いますよね。最近じゃ、天国の代わりに「天」と言う。「天にお帰りになった。天にお昇りになった」という言い方をするようになった。

伊藤 日本人がするんですか。

山折 はい。

伊藤 なんかイメージできないんですけど。

山折 でも、けっこう日本でも中世には「天」という言葉が多用されてるんですよ。人間の帰るべきところ、天。それは儒教から来たのか、仏教から来たのか、道教から来たのか、よく分からんところがありましてね。

伊藤 仏教から来た言葉でしょうか。

山折 天上界、天上という言葉が仏教にもありますからね。「天上界に浄土あり」という、鳩摩羅什が訳した阿弥陀経では前後左右、東西南北、上下に浄土ありですから。

伊藤 なるほど。じゃ、とにかく先生、行かれたら教えてください(笑)。

山折 浄土通信をしましょう。

伊藤 約束してくださいね。ぜったい聞きたいんですよね、どんなものか。

山折 風を送りますよ。

伊藤 先生からの風だったらきっと分かると思います(笑)。

 

P196 

 ちなみに私は、伊藤比呂美さんのご家族のあり方に常日ごろ感銘し、羨望の念すら覚えているのですが、最後にちょっとご紹介しておきましょう。伊藤さんは結婚をし、やがて離婚し、子連れでアメリカ在住の英国人アーティストと再婚し、カリフォルニアに移住している方です。それで父親を異にする三人の女のお子さんがいるのですが、比呂美さんの筆によりますとこうなります。

 

 日本語のぜんぜんできないのが一人、かつがつしゃべれるのが一人、しゃべれるけど読み書きはできないのが一人、しゃべれて読めて書けるけど、読めるのは漫画限定で、書けるのはメモ書き限定というのが一人。かえって(飼っている)犬が、日本の犬程度の日本語を何不自由なくきちんと解す。(二〇一〇年現在)

 

 何とも爆笑を誘うような背景説明なのですが、こんどのわれわれの人生相談仕立ての性老病死をめぐる語り合いがうまくいったのも、もしかするとそのためだったのかもしれません。