とても色々な方が登場して、興味深かったです。
P154
・・・オッカムの剃刀からの推論として、「新しい科学を打ち立てるべき複数の競合する場所があるときは、最も単純な場所を選ぶべし」という「オッカムの城」というテーゼも成り立ちそうだ。ベンザーは、次々と新しいオッカムの城、それも丁弩級の城を建設し続けた人である。科学における真の挑戦者とは、こういう人を言うのだろう。最後に、The New York Times紙の追悼記事にあったベンザーの言葉を紹介して終わりたい。
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・・・あることをきっぱりとやめて、全く知らないことを始めることができる、というのは、いつもすごく爽快なことだ。素人なのだから何一つ期待されないし、もし幸運に恵まれたら、他の皆が知りすぎているがゆえに不可能だと判断していたことを成し遂げることができる。これって、ほんとに愉快なことじゃないか・・・
なるほど、「オッカムの城」を作り続けたベンザーならではの言葉である。いい意味での素人らしい好奇心と行動力をもつ研究者。誰もがそうありたいところだ。しかし、言うは易く、なかなか難しいんですよねぇ、それが。
P181
エイブリーは「仮説は大胆に、真実には謙虚に」をモットーにしており、新しい発見がなされたときには、まず「注意深くその事実を確認し、その理由を推理すること」、「発見が事実であることが確認されても、自分自身はつねに批判的態度をとること」、そして自分の発見を「人々に正しく伝えるよう努力すること。決して誇張したり、誤って受けとられたりするような話をしてはならないこと」と、常に語っていた。すべての研究者が肝に銘ずるべきことである。
そして、もう一つ、繰り返し語っていたのは、「自分で吹いたシャボン玉は自分ではじくもの」、すなわち、自分の出した成果は最後まで自分で責任を取る、ということであった。この信条が、形質転換物質がDNAであることを確定させるため、定年後もしばらく研究を続けさせたのである。
「生命現象を一つの概念で割り切って普遍化することは間違いである」という考えから、エイブリーは、当時、デルブリュック(第4章参照)らのファージ・グループにより爆発的な発展を遂げつつあった分子生物学には批判的であった。また「決して誇張したり、誤って受けとられたりするような話をしてはならない」と考えるエイブリーは、いろいろと考えを巡らせることはあっても、人間の本性や生命の起源のような、哲学的性格をもった問題について議論することはなかった。多くの大研究者が、晩年、多かれ少なかれそういった傾向を持つにいたるのに対し、エイブリーは素晴らしく謙虚で思慮深く、品格ある研究者だったのである。
P227
吉田富三は、一九〇三年、福島県石川郡の造り酒屋に生まれる。小学校高学年になって、ずば抜けた成績を納めるようになった富三は、叔父をたよって上京し、東京府立第一中学校を受験する。しかし、口頭試問で試験官が富三の東北なまりを聞き取れず「お前の言うことはまるでわからん」と言われて、不合格になってしまう。今なら、間違いなくマスコミから袋だたきにあいそうなエピソードだ。時代が違う。
不合格になった理由の理不尽さから一中への進学をあきらめた富三は、私立の中学に進み、第一高等学校から東大医学部へと進学する。一高では『風立ちぬ』の堀辰雄、『考えるヒント』(文春文庫)の小林秀雄、『日本百名山』(新潮文庫)の深田久弥が同級であった、というと、ほのかに時代のイメージがわいてくる。
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・・・富三にとっての「作業仮説」は、一般に考える作業仮説より幅広く、何かを始めるときの「遠い目標」をさすようなものであった。だから「我々が漠然と懐いてゐる人生観といふもの」を「生涯の作業仮説」とするのも自然な成り行きであった。
人生の作業仮説も実験の作業仮説も硬直したものではだめで、「絶えず改善、修正されるダイナミックな弾性のあるものが尊いと思ひます。これは安易な放棄や変更と混同されてはなりません」と語っている。
「私といふ人間は流れ流れてきたといふことであります」「私に与へられたものは、いつでも私にとつて最善の場所であると思ふことができました」「立派な計画をまづ立てるといふことではなしに、出てきたものを次々と追つかけたといふのが私の研究のやり方であつたと思ふのであります」「無闇な欲望を起こさないで、もらつたものの中で自分の全力を尽くすといふことをやつてきた」などと、還暦の祝賀会での挨拶に語った内容は、先の「作業仮説」と並べると、意見、矛盾したようにも見えるが、そうではない。
富三は「omnis cellula e cellula(すべての細胞は細胞から生ず)」で知られる、細胞病理学をうちたてた「病理学の法王」ルドルフ・ウィルヒョウ(第一章参照)を信奉していた。その思い入れは学問だけでなく、「生涯にわたって信念の人であって野心家ではなかった」という、その生き方に対してでもあった。
「ウィルヒョウの生き様に自分を映していたといっても過言ではない」富三にとって、作業仮説が信念であり、流れて生きるということが野心のなさということだったのだ。
「人生とは畢竟、遺伝と環境と偶然だ」といったのは芥川龍之介だが、ここに努力と執念を十二分に付け加えたのが、富三の人生であった。
P317
赤痢菌すなわちShigellaに名を残す志賀は、いうまでもなく、日本の生物学でも突出した研究者の一人である。先の朝日新聞アンケートでも一五位にランキングされている。一八七一年仙台に生まれた志賀潔は、中学校では「荒城の月」の作詞家・土井晩翠と共に学び、第一高等学校から東京帝国大学医学部へ進み、一八九六年、卒業後すぐ伝染病研究所に入所した。
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土門拳の『風貌』という写真集で、だれもの印象に残る写真の一つは、まちがいなく志賀潔の写真だ。数ある写真の中で、唯一、みすぼらしいのである。一九四九年、撮影に訪れた土門は、ぼろぼろの畳に、障子紙のかわりに新聞紙が貼られた部屋に住む、〝赤貧洗うが如き〟生活に驚きを隠さなかった。その写真がすごい。フレームを紙で修繕したメガネをかけた志賀の顔がページいっぱいに広がっている。
戦争中に妻と長男、三男を亡くし、空襲で一切の財産を失い、郷里に近い海岸の草屋で、研究とも社会ともほとんど没交渉な生活に陥っていた。偉大な学者なのにあまりの窮状である。「私の信条」、「若い人達に―吾が生涯を顧みて」、そして、運が良かったということがしつこいほどに繰り返されている「赤痢菌発見前後」、など、このころに志賀が書いた随筆をまとめた『或る細菌学者の回想』(日本図書センター)は、どの内容も謙虚にして煌めき、人生や科学に対する示唆に富んだ本である。控えめに言っても感動に値する。
「私の信条」では、「自分の仕事と社会との関係」について尋ねられ、「これに対する私の答はすこぶる単純である。自分の選んだ学問を通じて皇国の弥栄と人類の福祉とに貢献すること。それだけである。しかして自分の五十年の仕事は貧しいながらそのための捨石にはなり得たであろう。これが私の自らひそかに慰めとするところである」と答えている。貧しくとも、志賀の精神性はあくまで高かった。
