生命科学者たちのむこうみずな日常と華麗なる研究 つづき

生命科学者たちのむこうみずな日常と華麗なる研究 (河出文庫 な 40-1)

 巻末にあった著者自身のお話も面白かったです。

 

P377

 一流ではない研究者の伝記がおもしろいかどうかというのは、どう考えても微妙です。それも、正しく記録されておらず、あいまいな記憶に基づいた自伝です。誰かが書こうとしていたら、誰がそんなもん読むねん、やめとけアホ、と呆れるところです。と言いながらも、書きます。

 いってみれば、文庫化にあたるボーナストラックみたいなもんでしょうか。そんなもんボーナスになるかっ!という声も聞こえてきそうですが、編集さんに頼まれてのことです。堪忍してやってください。

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 何を研究したいかは決まっていた。血液学だ。医学生時代の臨床実習で再生不良性貧血の患者さんを受け持った。造血幹細胞の異常により、すべての種類の血液細胞がうまく作られなくなる病気である。その時に読んだ造血幹細胞とはどういうものかという総説論文がやたらと面白かった。それ以来、できれば造血幹細胞の研究をしたいと思っていた。

 そんな時、とんでもない幸運が舞い込んだ。研究歴がまったくないのに、助手として来ないかというオファーである。それも、研究テーマは造血だ。いやぁ、世の中にはこんなラッキーが起きることもあるのだ。

 研修医時代にお世話になっていた先生を通じてのお話だった。・・・

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 この本の校正中に、その紹介くださった先生、佐藤文三先生に偶然お目にかかる機会があった。「いま、あつかましくも自伝を書いているのですが、先生のご紹介がなかったら、自分の一生はまったく違ったものになっておりました。そのことに気づいて、あらためて感謝いたしております」と、殊勝にお礼を申し上げた。

 すると、佐藤先生、「あの時、北村さんが何て言うて人を探してたか知ってるか?」とおっしゃる。「そら、あれでしょう。血液学に興味があって優秀な若者を、とか」とこたえたら、「あはは、ちがうちがう。ちょっと変わってて人の言うことをあんまり聞かなくてもいいから、研究に向いてるような奴はおらんか、と頼まれたんや」が~ん。そうやったんですか……。ずっと勘違いしてた。聞かなきゃよかったなぁ。

 先にも書いたように、やたらと飽きっぽい性格である。順調に研究が進んで論文を出せてはいたけれど、移植実験にも飽きてきた。一九八〇年代の後半、分子生物学が猛烈な勢いで進み始めたころだ。古くさい移植実験ばかりしていても埒があかない。造血を分子レベルで解明してみたいと強く思い始めた。

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 今となっては信じられないが、当時、血液細胞の分化を分子レベルで解析している研究室は、世界中にたかだか一〇くらいしかなかったはずだ。その中から、三つの研究室を紹介してもらえた。場所は、ボストン、トロント、そしてハイデルベルク。受け入れお願いの手紙を書いた。電子メールはおろか、ファックスさえあまり普及していなかった時代である。航空便での往復だから、返事がくるとしても一ヵ月ほども先かと思っていた。

 ところが、一週間ほどたったある日、帰宅した途端に、国際電話がかかってきた。ハイデルベルクにあるヨーロッパ分子生物学研究所(EMBL)トーマス・グラフ先生からである。心底驚いた。英語で電話するような経験すらほとんどなかったのだから当然だ。

 いきなり、受け入れるから来なさいという。さすがに、もっと驚いた。論文がけっこうあったとはいえ、分子生物学の実験経験はまったくのゼロである。・・・

 北村先生の研究室に参加した時もそうだったが、ほとんど自動的に進路が決まるような感じだった。・・・

 ドイツでの研究生活は楽ちんだった。EMBLには、超一流雑誌にコンスタントに論文を出すような研究室がごろごろあったけれど、長時間働く人などほとんどいない。ボスのトーマスも、家で仕事をしていたのかもしれないが、平均したら半日くらいしか研究室にいなかった。

 トオルは家庭があるのだから早く帰りなさいと何度言われたかわからない。夏休みを一〇日しか(!)とらなかったので、もっと休まないとダメだと言われた。ドイツ人は四週間も夏休みをとったりする。なんでも、一週間かけて仕事のことを忘れて、それからが本当の休暇らしい。そして二週間リフレッシュして、最後の一週間で仕事のことを思い出すのが正しい夏休みだと言われた。

 そんなことは日本ではほぼ不可能だ。それでも、以来、できるだけ夏休みは長くとることにしている。出典がどうにもわからないのだが、あるフランス人ジャーナリストが、「わたしは、一年間の仕事を一一ヵ月かけたらできるが、一二ヵ月かけたらできない」といったようなことを書いていた。それほどヨーロッパではバケーションが大事なのである。

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 楽しくはあったのだが、どうにも大きな仕事にはなりそうになかった。ひと山あてるには、新しいテーマにチャレンジせねばならない。そうなると、トータルで四~五年はいなければなるまい。それも、うまくいけば、の話である。すこしリスキーだし、娘のことなど家庭の状況を考えると、かなり難しい。

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 どうするべきか。もう研究はやめて、帰国して内科のお医者さんに戻ろうかと真剣に考えたりもしていた。そんなところへ、まったく考えもしていなかったオファーが舞い込んだ。

 ・・・京都大学医化学教室の本庶佑教授が助手(いまでいうところの助教)を探しておられるので推薦しておいた。先方は乗り気なようだから帰国するつもりはないか、という内容だった。

 腰が抜けるほど驚いた。何よりも、本庶先生といえば日本を代表する研究者である。まったく雲の上の人だ。・・・近々、ドイツに出張においでになるということで、面接を受けることになった。

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 本庶先生がどのような研究をしてこられたか、どういうお考えを持っておられるのか、一時間以上もお話しいただいた。いまでもいちばん印象に残っているのは、米国留学から帰国される際に、当時はまだどのように展開するかよくわからなかった免疫グロブリンの研究に賭けようと思った、というお話だった。

 留学される以前にやっておられた研究も面白い内容だったので、帰国後はその研究に戻るようにと諭す先生もおられたそうだ。しかし、どうなるかわからなくとも、免疫グロブリンの研究に惚れ込んでいたから、そのような話は断ったと。

「研究がうまくいかなかったら、田舎に引っ込んで釣りでもしながら町医者でもするつもりだった」というお言葉に、心底感動した。一生、この先生についていこうと思った。そして、二年の予定だったドイツ留学を三ヵ月早めて切り上げ、平成二年の秋、本庶研究室の助手になるべく帰国した。

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 予想以上に厳しい研究室だった。本庶先生が厳しくお怒りになられる、という訳ではない。世界に響き渡るような研究をしたいと全国から集まってきた若者たちである。全員が優秀であったかどうかはさておき、意識だけはやたらと高かった。

 三大誌に筆頭筆者での論文掲載経験がなければ、廊下の真ん中を歩いてはいけないような雰囲気まで感じた。そんな中に、これといった論文もなく、三三歳にしての中途採用である。知り合いは一人もいない。それだけで、けっこうなストレスだった。

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 その頃、ドイツ時代の師匠トーマス・グラフ先生が来日された。奈良を観光しながら、帰国してからのことをぼやきまくった。せっかくの休日だったのに悪いことをしたと思う。しかし、それくらい鬱々としていたのである。

 たぶん、トーマスも面白くなかったのだろう。その日の最後、トオル、お前はいったいなにをやりたいのかと、少し不機嫌に尋ねられた。自分の中で、それだけは確固たるものがあった。血液細胞の産生機構を分子レベルで解析したい。そう言うと、ご宣託のように、マウスのES細胞を使った研究以外ありえない、と返された。

 やっぱりそれしかないか、という気がした。・・・しかし、当時は、世界中で数カ所の研究室でしかうまくできないという高度な実験だった。

 ・・・トーマスとのディスカッションの後、さてどうしたものか、と思っていたところに、また僥倖が舞い込んだ。

 そのころ、本庶研のメインテーマのひとつはRBP-Jkという遺伝子だった。機能がなかなかわからないので、その遺伝子を破壊して調べるというプロジェクトが開始されていた。ES細胞の培養が非常に難しいので、トロントのタック・マック先生のところへ何ヵ月か誰かを送らねばならないという。

 その希望者が募られた時、まったく迷うことなくノータイムで手をあげた。・・・希望者が一人だけだったので、難なく自分に決定した。これが後の仕事につながったのだから、本当に幸運だったとしか言いようがない。・・・

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 タック・マック先生というのは、血液細胞の研究から始められ、T細胞受容体のクローニングなどを成し遂げられた超有名研究者である。研究室を去るにあたり、帰国したらふたたび悩むであろうことについて、ひとつ質問をした。

「What is the most important factor to succeed in science?」科学で成功するために最も重要なことは何かと。きっといい答えをしてくれるだろうと期待した。間髪を入れずに発せられた言葉は、「Science is luck!」(それは幸運である)だった。それも、右手の中指を人差し指に交叉させた幸せのおまじないをしながら。あまりのことに腰が抜けそうになった。けど、ありがたかった。そうや、あまり悩んだらあかんのや、幸運を待つことも大事なんや、と肝に銘じた。

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 最初の師匠である北村幸彦先生から厳しく指導された、ある実験がうまくいかなかった時にどうするかについての格言がある。「毎日やる」ということである。どう考えても非科学的だ。なにしろ、だめでも毎日繰り返せ、というのであるから、ほとんど精神論にすぎない。しかし、不思議なことに、毎日やっているうちに、できない実験ができるようになることもままある。スポーツの上達みたいなものだろうか。

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 ・・・(たぶん)神様に励まされながら、一九九三年三月、三六歳の誕生日をすぎても、同じ実験を毎日繰り返していた。そして一ヵ月あまり。それまでもやもやしていた研究が劇的に進み、ゴールデンウィークあけに目が覚めるほど素晴らしいデータが出た。いまでもそのデータを見た時の興奮は昨日のことのように思い出せる。うれしくてうれしくて、キャンパスのまわりを、意味もなく、一時間も二時間も自転車で走り回った。

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 ……こうやって書いてみると、教授になるまでの道筋は幸運に恵まれたとしか言いようがありません。まず、研究者人生のスタートは、大学院にも行かず、いきなり助手での採用でした。留学先も、あれよあれよという間に決まりましたし、本庶研への参加は迷うことすらありませんでした。微生物病研究所の教授になれたのも、首の皮一枚の幸運でした。

 本庶研時代の同僚に、私から見て、世界でいちばん幸運ではないかと思える奴がいました。教授になることが決定した日、その男に、先生ほど幸運な人には会ったことがない、と言われて、腰が抜けそうになったことをよく覚えています。しかし、そう言われても不思議ではないような気がします。・・・