91歳。一歩一歩、また一歩。必ず頂上に辿り着く

91歳。一歩一歩、また一歩。必ず頂上に辿り着く

 道場六三郎さんのエッセイ。

 印象に残る言葉がたくさんありました。

 

P26

 いつも「昔は昔、今は今」と考えるようにしています。

 ゴルフを始めて63年になりますが、若いころに比べたら、飛距離は半分になりました。やはり筋肉が衰えて、力も出なくなりましたね。残念ながら、それは認めざるを得ません。でも、今の自分なりの力で、精一杯やればいいと思って頑張っています。

 いまだに「スイングするときのトップの位置やインパクトは、もっとこうすればいいんじゃないか、ああすればいいんじゃないか」とか、いつも一生懸命考えていて、時には眠れなくなるほど……。YouTubeを見て、フォームの研究をすることもあれば、自分が打つところを撮影してもらって、改善点を追求したりもします。幾つになっても学び続けたいですから。

 

P30

 仕事でも日常生活でも、ちょっとした失敗は誰にでもあります。でも、終わったことは終わったことです。かといって明日のことも、いくら考えても人生どうなるかわかりません。

 大事なのは、「今日一日がすべて」という気持ち。明日は明日の風が吹く

 目の前の仕事に没頭し、今この瞬間は精一杯楽しくやろうというのが、僕のやり方です。・・・

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 人生、今日一日と見つけたり。

 仕事も人生も、過去に惑わされないで、サバサバとした気持ちで取り組みたいものです。

 

P33

 年を取ると、さっさとやればいいことを億劫に感じてしまいがちです。ゴミが落ちていても、すぐに拾わないとか。僕は、昔からの習慣で、外を歩いていても店の中にいても、ゴミに気付いたらサッと拾います。最低限のマナーだと思っていますから。

 そこで行動に移せる小さな勇気が、小さな幸せにつながります。

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 散歩に行くのが面倒だなと思っても、ちょっと勇気を出して外に出れば、幸せがたくさん転がっています。だって、90歳過ぎて自分の脚で元気に歩けるだけでも幸せ者です。季節の花がきれいに咲いているのを見つけることもできるし、感謝することはいっぱいあります。そう思うと自然と笑顔になれて、ほかの人に対する気持ちも違ってきます。それは、この年齢になったからこそ、わかることかもしれません。

 

P37

 夜中トイレに起きた後でなかなか眠れないときなど、やっぱり料理のことを考えてしまいます。そろそろブリが美味しくなる季節だな、今年はどうやってお客様にお出ししよう、新しい食材と組み合わせたら面白いんじゃないか。今まで試したことのない調理法で、もっと美味しさを引き出せるんじゃないか。

 そう考え始めると、ますます楽しくなって、余計に寝られなくなります。このままずっと考えていたいと思うくらい(笑)。

 

P61

 このところ親しい友人が亡くなることが多いのですが、どういう訳かあまり気になりません。こればっかりは仕方がないことだから。自分もそのうち逝くだろうと思いながらも、あまり気にしないようにしています。元気で動けるうちは、せいぜい忙しくしていたいものです。

 終活も、全然していませんね。この年になったら、何か考えておいたほうがよいのでしょうが、まだ遺言も書いていません。僕が死んだ後は、子どもたちが勝手にうまくやってくれるだろうと思っています。

 それよりも、今日一日楽しく過ごすことが大事です。

 

P119

 人間、メンツやプライドにこだわっていては駄目ですね。自分は大したことのない人間だと自覚しなければ、進歩がありません。

 若いころ、大きい店の料理長を経験した後で、「船場」という総菜屋を開いて大失敗したことがあります。今から思うと、高級料理店で仕事をしていたのだから、総菜屋なんて簡単だと高をくくっていました。

 でも、当時の僕には、安い材料で美味しい総菜を作ることは難しかったんですね。結構いい材料を使って、全部自分で作った物を売っていたのですが、これが全然流行りませんでした。途中から魚屋も併設したり、日替わり弁当の配達も始めたりしましたが、毎月赤字が増えるばかり。庶民的な料理一筋に長年打ち込んできた人たちには、到底かなわないと思い知りました。

 それ以来、「いったい何様のつもりだ。おまえなんて、自分が思っているほど大した人間じゃないぞ」と、時々自分を戒めるようになりました。

 長い目で見れば、当時の失敗から学んだことが、現在のYouTubeのレシピ作りに少し役立っているかもしれません。今の僕は、ご家庭で手ごろな材料を使って簡単に作れる料理を考え出すのが得意ですから(笑)。

 

P131

 ずいぶん前のことですが、鍋を運んでいたスタッフの女性が、うっかりしてお客様のコートに汁をこぼしてしまいました。幸いやけどもなく、大事には至りませんでしたが、連れの人がすごい剣幕で怒りましてね。ほかの従業員が対応しても怒りは収まらず、僕が謝ることになりました。

 そのとき思ったのが、「よし、今日は役者になってやろう」ということでした。『仮名手本忠臣蔵』の由良之助にでもなったつもりで、一世一代の芝居をしよう。相手の心が晴れるようなお詫びの言葉を言って、殴られても蹴られても謝り倒そうという覚悟で頭を下げたら、相手も「そこまで言うんだったら」と許してくれました。

 生きていると、理不尽なこと、大変なこともたくさんあります。

 真っ正直に受け止めるのがつらいときは、いっそ役者になったつもりでうまく立ち回り、その場を切り抜けるのも、大人の知恵ではないでしょうか。時には「嘘の世界」を生きてみるのです。

 そうやって苦境を乗り越えたら、自分の演技に拍手を送ります。世の中なんて、どうせ夢のまた夢。追い詰められて逃げ場がないとき、ストレスをためないための僕流のやり方です。

 

P135

 浄土真宗の熱心な信者だった両親の影響で、他力本願というか、僕自身には何の力もなく、全部人によって生かされているのだという哲学もあります。

 渋滞にはまって時間に間に合わないときなど、自分が頑張っても遅れるものは遅れるのだから、あれこれ悩んだりしません。どうにもならないことに悩んで疲れるなんて、ばかげていますからね。われながら切り替えが早いというか、諦めがいいものだと思います。

 仕事に関しては、どんなに頼まれても、やりたくないことは引き受けませんね。時間がないとか、興味がわかないとか、理由はさまざまですが、嫌なものは嫌ですから。

 

P187

 女房を亡くしてから、命とは永遠だと思うようになりました。いつも仏壇に語りかけ、今日あったことを報告しているので、生と死の境はあっても、そばにいるように感じます。

 今では「生きているとか、死んでいるとか、そんなことはどうでもいい。要は、こっちにいるかあっちにいるかの違いなんだから」と思っていますね。

 女房も師匠も友人も、多くはあちらの世界に行ってしまいましたが、僕の心の中では、生きているときとあまり変わりはないのです。