お弁当 ふたをあける楽しみ。

おいしいアンソロジー お弁当~ふたをあける楽しみ。 (だいわ文庫)

 

 お弁当にまつわる、いろんなお話。

 今はあちらに旅立った、弁護士の中坊公平さんのエッセイが印象に残りました。

 

P235

 何やかやで東京に出て来た私が、京都に帰るため新幹線に乗り込むのは、たいてい夜八時ごろ。お腹もすいているのだが、駅弁は止まって食べたらただの弁当だから発車まで我慢して、列車が滑り出すと、待ちかねたように好物のシューマイ弁当のフタをとり、ニンマリする。この瞬間、この世でこれくらい幸せはないって気分になっている。七百十円て安いなあ、うまいなあと、ほほが緩む。そりゃあ、「たん熊」はんとか、「なだ万」はんとか、さすが一流のお店は美味しおますなあ。けど、どっちが幸せかというたら私はシューマイ弁当や。

 そして家に着き、家内と並んで寝て、翌日の予定がハードでないなら、二人で壊れたレコードみたいに同じ昔話をして夜更かしし、そのうちお月さんが見えたりしたら、またしみじみ幸せなんやねえ。

 私が住民側弁護士団長としてかかわった、香川県・豊島の産業廃棄物の撤去問題は、しんどい闘いだった。県は過ちを認めず、県民の理解もなかなか。そこで私たちは、豊島の実情を訴えて香川の五市三十八町すべてを行脚する「百カ所運動」を計画した。

 その日に集会を開く町で、まず「〇時に公民館においでください」とか車で流して回るのだが、当方七、八人に対して、集まりが十数人のことも多く、最悪二人だった。

 運動に携わる島民たちに、何の日当もないのはもちろん、彼らは、それで産廃撤去の実現性が少しでも高まるならと、県への補償要求も放棄していた。

 高齢の島民たちは、当時まだ運動が何ら先の展望を持てず、仮に成功しても、それから撤去までさらに十数年かかることを考えると、島が回復した姿を目にすることは難しかった。現に、公害調停を申請中の七年間だけで、五百四十九人の申請人のうち六十九人が亡くなった。それでも、子孫のためにと、弁護団長の私を信じて動いてくれていた。

 絶望も覚悟しつつ、精一杯の抵抗を島の歴史に刻みつけようとする島民の姿に、「自分は本当に、この人たちの願いを遂げてやれるのか」と、顔には出せないが、不安に締めつけられるような思いの連続だった。

 集まりがよくなかった、ある町での集会の後もそうだった。皆で帰るワゴン車の一番後ろの席に身を沈め、私は底なしの淵に引き込まれていくようだった。

 そのとき、窓の外に目をやると、空は藍色を深めつつ、まだ黒々とはしておらず、田畑の広がる向こう、日が落ちた辺りにだけ掃いたように茜色が残っていた。見とれているうちに、すうっと、その光景の中に自分が溶け込んでいってしまった。

 こうした瞬間、私の体は幸福感に包まれ、自分が背負っているものすべてを、いったんバサーッと切って落とせる。何も状況が変わるわけではないが、再びそこに立ち返ったとき、幸せの余韻を胸に、少し自分を取り戻して向き合うことができる。

 安い食いもんがウマい、月が見えた、日が沈んだ……司法研修所で同期だった仲間に「ほかのことでは負けるとは思わんが、お前はほんまにアホみたいなことで、勝手に幸せになれるなあ」と、あきれられたことがある。置かれた状況にかかわらず、間欠泉が吹き上がるように突然、幸せになってしまうのだから。

 私はこれを糧に生きてきた。リヤカーの家族連れを見送った父のつぶやきや、母が「山のあなた」を愛誦していたことが私に気づかせたように、幸せは、実は日に何度も人を訪れているのではないですかなあ。