寄せ場のグルメ

寄せ場のグルメ

 著者の他の本が面白かったので、こちらも読んでみよう、と思いました。

 知らない世界が広がっていて興味深かったです。

 

P273

 二〇一九年に始まった本連載「寄せ場のグルメ」が、いよいよ最終回を迎える。・・・

 この連載を思いついたのは、東京最大のドヤ街の一角にある酒場だった。「山谷」以外の「寿町(横浜)」「西成(大阪)」などの「寄せ場」に暮らす日雇い労働者が、どこで何を食べているのかを記録しようという趣旨だった。

 しかし、考えてみるとバブル崩壊後の日本社会は、派遣労働、アルバイト、パートなど、雇用の形態は様々あれど、確実に非正規雇用労働市場が拡大。最低賃金はおろか、実質賃金そのものは下がり続け、富裕層と貧困層の格差は開く一方だ。つまり、私は社会全体が「寄せ場化」していると考えたのだ。そこで、この連載では特定の場所としての寄せ場はもちろん、現代社会で働く広い意味での労働者らがいったい何を食べているのか、という広義の視点で取材を進めてきた。だからこそ、今やファーストフードの代名詞である「牛丼」も、深夜労働の現場の一つであるファミリーレストランも、私にしてみれば「現代の寄せ場」を垣間見る現場だった。・・・

 寄せ場社会には「飯屋は孤独の吹きだまり」という言葉がある。本連載で取り上げてきた店の多くは、「早い、安い、旨い」の三拍子はもちろんだが、友人や家族ら大勢でワイワイやれる店はほとんどない。どちらかといえば、一人でもふらりと店に入って、なおかつ静かに食事にありつける店ばかりだった。そういう店には、必ずと言っていいほど「偏屈で寡黙な親父」、もしくは「強面の女将」がいて、客の一挙手一投足を凝視しているものだ。

 ピリッと張り詰めた空気、完全に差配されたアウェーの空間。ある種の緊張感の中で、飲んだり、食ったりすることを、安易に窮屈と考えてはならない。私は繰り返し、このことを書いてきた。確かにそうした親父や女将は、いっけん口が悪く、ぶっきらぼうで、とくに初めての客には冷たい。サービスなどの概念が全く通用しない世界だ。しかし、そこに意味がある。

 もともと、ドヤなどに暮らす高齢の労働者は単身世帯が多く、またそれぞれに口にはできない複雑な過去を持ち合わせている。彼らは家族や友人などの煩わしい人間関係のしがらみを捨て、寄せ場で生きることを決めたのだ。そもそも狩猟採集の時代から、「食べる」という行為は家族や友人らと、食べ物を分かち合い、一日の終わりに、火をくべたかまどを囲み、その日の狩猟の成果について語り合う、いわば家族単位の「団欒」と深い関わりがある。だからこそ余計に、寄せ場で暮らす者にとって、日々の飯を食べる場所が、孤独の吹きだまりに思えてしまうのだ。

 つまり、あの偏屈で頑固な親父、女将らは、団欒とは無縁の「個」として生きる人々の生存権を守ろうと必死なのだ。彼らの一日の疲れを癒やし、つかの間の安堵にふけるその空間を、自分が悪役になることをいとわず、全力で守ろうとしているのだ。

 そう分かった時、無性に彼らの存在が尊く、愛おしく思えるようになった。作家ヘンリー・ミラーではないが「そこに神はいた」のだ。そして、しばらく通っていると、こんなにも居心地のよい空間は他にはないとさえ思える、私の居場所となった。

 かつて寄せ場でなくとも、こうした誰もが一個人として、安心して食事にありつける店は、東京のあらゆる場所にあった。・・・

 考えてみると、東京は全国から仕事を求めてやってきた人々で構成されている。大げさにいえば、東京という大都市そのものが、寄せ場的な社会そのものなのだ。都市は群衆の集合体であるが、だからこそ、他人のことなど気にもかけない「無関心」が存在していて、個人のプライバシーを曖昧なものにしている。だからいいのだ。群衆の中の孤独。これもまた本連載のテーマだった。

 ・・・

 食べるという行為は、「食べる喜びと、食べなくては生きていけない辛さ」を内包している。食べるという行為が人間にとってどんな意味をもつのか。あなたの街の酒場で、飯屋で、喫茶店で、ホルモン屋で、時には一人になって確かめてほしい。最後に詩人、清水哲男さんが書いた詩を紹介して、この連載を結ぶとする。

「赤提灯の楽しさとは、人間に触れる楽しさである。と同時に、人間に触れない楽しさである」

 

P129

 ・・・円山町のはずれにある一軒の赤提灯に入った。カウンターには先客が二人いる。さつま揚げを肴にビールをやっていると、隣の男性客の会話が偶然、耳に入った。どうやら二人は三十代前半で、一人は妻子あり。円山町と隣接する高級住宅街「松濤」にある某著名人の自宅の警備員だった。私は身分を明かし、渋谷を取材していると打ち明けた。すると、渋谷という街の本当の奥深さの一端を二人が本当はオフレコと言いながらも教えてくれた。二人に言わせれば「松濤の中でも一丁目以外は松濤ではない」そうだ。

「表玄関からリビングにたどり着くまで、五回のセキュリティーをくぐらないといけない家でも、泥棒は度々、入るんです。もちろん素人ではありませんよ。だから、一丁目の住人は本当に価値があるものは、一切、自宅には置かないんです。泥棒は宝石でも絵画でも、価値のあるものしか盗みません。所有者も目利きなら、盗みに入る側も目利きなんです」

 円山町から目と鼻の先にそんな世界が広がっているのかと、改めて驚いた。いったいどんな人が暮らしているのか。マンションを借りるのでさえ、松濤ではたとえ億単位の預貯金があっても、審査が通らない例もあるのだそうだ。皇室関係者も多く暮らしているという。そんな人々から道を一本隔てた円山町はどう見えているか、と聞いたら笑いながら即答した。

「円山町の方向を見たくないと言いますよ。松濤には学校もあるのですが、円山町には足を踏み入れるなが、親子ともに暗黙の了解です。彼らにしてみれば、ないような町なんです」

 それでも……と一人の警備員が続ける。

「どっちの町が落ち着くかというと円山町でしょ。ここに来ると、ああ、生きているって思う。ウン千万円する高級外車が当たり前のように一家に一台以上あって、百貨店の買い物はどんな高価な時計でもツケ払い。そんな世界があるのかと。もちろん、仕事なので警備していますが、時々、自分は何をしているんだろ、と考え込んでしまいます」

 カウンターを先に立った二人の背中を見送りながら、必ずしも街の本当の「奥」は影の世界にあるとは限らないと悟った。・・・