ヘヤー・インディアンの人間関係

ヘヤー・インディアンとその世界

 現代日本では大問題になりそうなことが、全く問題じゃないどころか、むしろ生活の知恵のように見えました。

 

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 テント仲間を構成する男女の対は、男のとるムースやカリブが多いときは、皮なめしが上手で早い女と組むことが望ましい。あまりムースやカリブをとらない男は、皮なめしの仕事がのろのろとした女と対になっていてもよい。つまり、労働力のバランスのとれたパートナーで、気が合えばよいのだ。セックスもするけれど、相手に惚れ込んでいるかどうかということは、別の次元に属することなのだ。男も女も、個人差はあるが、一時に一人ないし七、八人の恋人をもっている。稀には、ラクー夫妻のように、ピッタリと惚れ合って、しかも労働力のバランスのとれた対もあり、彼らは別れて恋人をもったり、浮気をしたりせずに何十年も過ごしてきたのだが、これは、「たまたま、ラクー夫妻はそうなのだ」と見られている。誰も、ラクー夫妻のことを「夫婦の鑑」とも見ないし、「たった一人の相手しか知らずに可哀想だ」とも考えない。一般には、恋と日常生活は別のものである。テント仲間として暮らしている男女がちょっと相手に嫌気を感じると、・・・男も女も、フラリと恋人のもとへころがり込んだりする。しかし、恋人同士の同居も、長持ちするわけではなく、再び、労働力のバランスのとれた対がよりを戻して、一つのテントに生活するようになる。

 男同士の猟仲間の関係が気まずくなって分裂する場合も、永遠の絶交などは滅多に起こらない。二、三ヵ月もするといつの間にかケロリとした顔で両者が歩み寄って、一緒にキャンプしている場合が多いのだ。

 人間関係の故にテント仲間やキャンプ仲間が分裂しても、その当事者たちは、「ウサギがとれなくなったから」とか、「魚とムースばかりで、カリブのやわらかい肉が食べたくなったから」とか、「強風にさらされすぎて、風のないところが、なつかしくなった」とか、「テンがよくとれるところへ移りたかったから」といった説明の仕方を人に向ってする。つまり、自然環境のみのせいにしてしまうのである。彼らの説明に出てくる自然の状況は嘘ではない。さらに、どうも、彼らは、そういう理由のみを意識にのぼらせ、人にしゃべることによって、それが「真実」だと心から思い込むらしいのである。だからこそ、二、三ヵ月もすると、そしてときには一ヵ月もたたないうちに、何もなかったかのように別れた相手と再び、キャンプやテントを共にすることができるらしい。

 

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 どんな「仕事」や「遊び」をしているときにも、彼らはときどき手を休めて、お茶をすすったり、たばこを一服したり、ちょっとおしゃべりに興じたりする。また、まわりに人がいるといないとにかかわらず、意識的に手を休め、体を休めて一息入れる。そして、この「休む」ということは、一人ひとりの生活のリズムのなかで、自分を調整してゆくためにひじょうに大切なことだと考えている。横になること、瞑想にふけること、眠ることも「休み」のなかに入っている。・・・

 「休んでいるときに、夢を見る」と彼らは言うが、その夢のなかで、個人個人は各自の守護霊と交信し、行動の指針を得ているという。・・・

 

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 ・・・テント仲間を構成するメンバーについて説明しよう。ヘヤー・インディアンの社会には「夫婦が子どもを育て、その子どもが独立してその家庭を離れるまで、一つ屋根の下で暮す」というような時間的持続性はないわけである。彼らの間では、夫婦、親子といえども、かりそめの宿を共にしている気持ちで共同生活を営んでいる。・・・

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 第一に、彼らは「家族は同じ屋根の下で住むのが当然だ」という考え方が弱い。・・・

 第二に、「男女の同棲は、あくまでも気の合っている間だけつづければいい」という気持ちが流れていることだ。したがって、「偕老同穴の契りを結ぶ」というような考え方はいっさい存在しない。・・・

 第三に、「乳児は、その子を生んだ母親が育てなければならない」という我われ近代日本人の理念における大前提が、この社会には存在しない。「子どもは、育てられる者が育てればいい」のであって、「それが実の母なら望ましいが、何も実の母に限ることはない」という考え方である。ヘヤー社会にはじつに養子や里子が多い。聞いてみると、「生まれてすぐは、父方の祖母に育てられて、隣のテントのシンルイではない小母さんから乳をもらい、それから母の妹の所で暮して、七つのころ、一時、母親と暮らしたけれど、あとは母の兄の家族と暮して、今の夫と結婚した」というような話がよくある。・・・

 第四に、ヘヤー社会では個人主義が徹底しているので、日本において見られるように、自分の属する集団に心理的に依存する度合いが少ない。・・・ヘヤー・インディアンの個人は自分と自然との関係および自分と超自然との関係に関して、エネルギーを費やす。

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 ・・・テント仲間のメンバーが常に変化するのだから、特定の「家庭料理」とか、「この家庭のやり方、流儀」「家風」というようなものも存在しない。技術や習慣なども、すべて個人個人のものなのである。・・・

 ・・・ヘヤー・インディアンの考え方に立つと、一人ひとりが自らに誇りをもち、まわりの人々の関心の的となるような「床の美しさを保つこと」や、「おいしいどぶろくをつくること」、「話上手」、「冗談の名人」、「ビーヴァー狩り」、「クマとの闘い」が存在する。そして、一人ひとりの人間が、「その人らしさ」をもった個人として充分に充実して生活しているのである。