こちらの本からも、印象に残ったところをメモしておきます。
P75
・・・「考える」というフレーズを使ったときに、一部では、「考える」ということは思考のなせる業だから、それよりも「感じる」ことを大切にしたほうがよいとたしなめられることがあります。
つまり、「考えるな、感じろ」ということです。
この意味合いとしては、あれこれと小さな頭でごちゃごちゃと理屈をこねまわし、思考するよりも、シンプルに内から湧き上がってくる感覚―感性を大事にしたほうがいいよ、ということです。
けれども、「考えるな、感じろ」の文脈を浅薄に捉えてしまうと、「考えなくていい、感じていればいいんだ」という論理で、思考すること、考察・洞察・探求するということをやめてしまったりもします。それではもったいないのです。たとえていうなら、裏表あるコインの一面だけを見て、すべてを語ろうとするようなものだからです。
「考えること」と「感じること」は、表裏一体をなす概念です。
そして、それは決して対立するものではなく、それぞれがそれぞれのよさを補い合いながら、全体像を観る手法であると感じます。
P109
・・・時間の本質については、意識が注目した観点の場の移動のことを、「時間」として認識するという、光の点滅のようなものであると考えています。
つまり、意識が捉えた、パッ、パッと点滅する光の位置を「視る」という作業のことを時間と呼ぶため、結局「時間は存在しない」ということになるのです。
もし、「時間はある」という前提から始めるのであれば、無数にある意識の場―光の点滅から、どの光を選択するか(=意識するか)ということになり、そこにあるのは無限の選択肢と、無限ともいわれる時間が同時に存在しているということになります。
このように、時間の観念を再認識していくことは、自分が見ている世界の認識を根底から変えてしまう、究極のメタ思考かもしれません。
P157
つまるところ、今起こっているのは、あなた自身が現実を創造しているという神の叡智に気づくための、実践のチャンスでもあるのです。
そして、起こる出来事に対する意味付けは、意図せずして選んでいる、あるいは所属しているあなたの振動周波数が選んだ「現実」という名のマトリックスにおいて、流布されている集合意識の反映でもあります。
P235
・・・アトランティスがムーを攻撃し、核も使いながら、地球のエネルギーバランスがかなり危うくなったときに、双方の大陸が沈んでしまうという出来事が起こってしまったのです。
その際、ムーの民の一部が、大陸棚を目指して旅立っていったのです。それが日本でした。
そこから理想とする、新しい文明を起こしていったのですが、それが1万年以上続いた、縄文文明の礎となったのです。
当時は、宇宙存在とも頻繁に交流していましたし、そもそもムーにいた民たち自体が、宇宙存在とのミックスで生まれており、半神半人的な存在も数多くいたのです。
そのため、縄文黎明期は、テレパシーやテレポート、バイロケーションや物質化なども日常的に行われていたと考えられます。つまり、意思疎通は波動伝達コミュニケーションで行われるため、わざわざ言葉を語る必要がなかったということです。