京大的アホがなぜ必要か

京大的アホがなぜ必要か カオスな世界の生存戦略 (集英社新書)

 京大変人講座が面白かったので、こちらも読んでみました。

 

P12

 ・・・どうして学問や研究に「アホ」が求められるのか。ふつうは賢い人間がやるのが学問だと思われているので、「アホじゃ困るだろう」と言われそうです。でも、この「アホ」は「賢い」の反対語ではありません。「常識」や「マジメ」の対立概念です。

 そもそも学術研究は、すでに誰かがやったことをなぞっても大して価値がありません。それまで誰も気づかなかった真実を明らかにするのが、研究のあるべき姿です。

 したがって研究者は、従来の「常識」にとらわれていてはいけない。・・・

 とはいえ、たとえば天動説から地動説への転換に長い時間がかかったことを見ればわかるように、古い常識を捨てて新しい真実にたどり着くのは簡単ではありません。物事をマジメに考えているだけでは、「非常識」な真実は見えてこない。常識を破るには、いったん正常な思考回路を停止する必要があります。

 まともに考えるのを、やめる。それが、「アホ」の意味にほかなりません。

 ・・・

 もっとも、非常識な「アホ」は当たれば大ホームランになるものの、打率は高くありません。・・・

 したがって、成果を上げるためには、失敗に挫けることなく何度も何度も打席に立つ必要がある。空振りに終わるたびに、それこそ世間から「アホやなぁ」と呆れられてしまうのですから、これにはかなりタフな精神力が求められます。やれば確実に結果が出るような常識的な研究のほうが、ある意味で楽だともいえるでしょう。

 だから「アホなことせい」は、決してお気楽な教えではありません。それはもう、泣きたくなるほど「アホ」と言われ続けて、ようやくひとつの大発見にたどり着くのですから、なかなかどうして険しい道のりなのです。

 しかし京大では、その「アホ」になりきれるかどうかが勝負。失敗しても「すんまへん、すんまへん、わしらアホやから堪忍してや」と低姿勢で開き直りながら、したたかに「アホ」を貫く雰囲気が昔の京大にはありました。私自身、その姿勢を身につけるのが、京大での研究者修業の第一歩だったように思います。

 また、非常識な「アホ」を正当化するには、常識とは違う評価基準がなければいけません。ふつうは「役に立つかどうか」が評価の物差しになるのでしょうが、「アホ」は何しろ打率が低いので、その基準では評価しにくい。そのため京大では、「役に立つ」ではなく「おもろい」がホメ言葉だといわれていました。

 ・・・

 そこには、ほとんど理屈はありません。もちろん、数字で比較できるものでもない。かつてコラムニストの天野祐吉さんが「面白いというのは目の前がパッと明るくなること」だと喝破されていましたが、京大の「おもろい」もそういう感覚的な評価基準です。

 

P137

 学生時代、単位は卒業に必要な最低限の数しかとりませんでしたが、面白いと思った科目は真剣に勉強しましたし、自分で納得できたら「もういいや」と試験を受けなかったこともあります。論理回路で衝撃を受けた物理学実験では、課題が終わったあと、先生に頼んで実験室に入りびたり、電子メトロノームやいろいろつくりたいものをつくらせてもらいました。もちろん、単位とは無関係です。

 勉強以外では、毎月、満月の晩に友人と徹夜で数十キロ歩いてみたり、一輪車で大学に通ってみたり。とくに奇抜なことをしようと思ったわけではないのですが、「ちょっとやってみたいな」と思ったことを素直にそのまま行動に移すことを心がけていました。「他人になんと言われようと、やりたいと思ったらやれ」と自分に言い聞かせていたのです。

「アホなことをせい」は、他人の笑いをとることが目的ではありません。社会の常識にとらわれずに何でもやってみろという意味です。常識的には「アホ」と思われているなかに、意外に正解があるのです。

 ・・・

 それ以降の私の人生も、かなり行き当たりばったりでした。まったく無計画というわけではないけれど、一〇年、二〇年先のことまでは考えない。将来困らないように、あらかじめ準備するようなこともあまりしませんでした。とにかくそのときに「やろう」と思ったことを思いきりやる。・・・だいたい、あらかじめ準備したところで、それがうまくいくかどうか怪しいのですから。ひとつ意識していたのは、なるべく世の中の最先端に出ないこと。・・・

 誰もが「最先端」と認める場所にいると、世間から成果を期待されます。期待に沿えなければすぐに批判されるわけで、それを意識すると自由に行動できません。プレッシャーなしに自由にやりたければ、最先端を避けたほうがいい。世間には期待されなくても、自分にとって新しくて面白いことが、自分にとっての「最先端」です。

 ・・・要は「アホ」だと思われているからこそ、自由という強力かつ貴重な武器が得られるのです。