老親友のナイショ文

寂聴さん最後の手紙 往復書簡「老親友のナイショ文」

 寂聴さんと横尾忠則さんの往復書簡。

 横尾忠則さんの言葉が印象に残りました。アホ待ちっていいなぁ・・・

 

P34 

 ・・・絵は面倒臭い作業です。時々、何のために絵を描くのだろう?と考えます。小説なんかと違って、頼まれて描くわけじゃないんです。と言って、好きだから描くわけでもなし。まあ、クセというか、業なんでしょうね。描かんとしゃーないから描くんです。もし命令する者がいるとすると、神かな?と思うことはあります。その証拠に、キャンバスを恨めしそうにボンヤリ見ていると、身体のどこかでピカッと光って、インスピレーションが来るのです。これが来なきゃ、そのまま居眠りするところです。このピカッがどうも神らしいのです。ピカッは頭が空っぽになった時に来ます。あれこれアイデアを考えている時は来ません。

 子供が何かに三昧になっている時とか、お坊さんがお経を上げたり坐禅している時とか、アスリートが無心で走っている時にランニング・ハイになる瞬間に近い時にピカッが来るのです。頭空っぽで全身を脳に切りかえた瞬間は時間が止まるというか時間の外に出てしまうのです。・・・

 画家が頭空っぽになる瞬間は宇宙とつながっています。宇宙=神です。・・・頭を空っぽにして、アホ状態になるのを待っているんです。頭で考えたり、努力したりするのは面倒臭いので、アホ待ちです。すると、あのピカッが来るのです。・・・ソラ来タ!と感じると指先きがピクピクと動きます。・・・

 

P83 

 ・・・寒山拾得こそアホを悟った僧です。本当に悟ると寒山拾得みたいにヘラヘラした締りのないアホ顔になります。・・・いつも福笑いみたいな顔をして宇宙とぶっ続いています。最近というかここ数年前からの僕の作品に登場する人物は、寒山拾得のような顔をしています。僕にとっての魂の自画像です。・・・

 

P114 

 やはり、年と共に身体のハンディの個所が増えていきます。この前まで出きていたことが、今日はもう出きなくなったりします。そんな時、無理して抵抗しないようにしました。加齢と共に、その時々に応じた自然体に従えば別に驚くことも恐怖することもないということに気づき始めたのです。この前にも言ったかな?言ったか言わなかったかということも忘れて、同じことを何度も反復します。だから、よく「さっき聞いた、聞いた」と言われます。そんな時は「何回でも言うたるわ」と言えばいいんです。その内、同じ絵を何枚も描くようなことが起こるかも知れません。もう起こってます。同じ絵を描いて、相手をあきれさせればいいんです。そうなると立派なコンセプチュアルアート(観念芸術)になって思わぬ高い評価を受けるかも知れません。

 ・・・

 ・・・描く意欲があるとまだダメですね。僕もいい加減に描くことに飽きているんですが、まだほんの少し好奇心が残っているんです。好奇心がある間はまだ一人前ではないです。僕の好奇心は、飽きた、あゝ描きたくないなあ、という気持ちで描きながら、イヤイヤ描いた絵って、どんな絵になるやろ。というそんな絵を見てみたいと思って描いているんですが、この見たいという気持ちがすでに好奇心なんです。このことに無関心になって、初めて画家になれるんですがそれを見てみたいという好奇心があるので、「諦念の絵画」とは言えません。僕のこれからの人生の楽しみというのは、この好奇心抜きで、ただ描くために描いているという境地になることです。ほな、サイナラ。