一寸先は光です

一寸先は光ですー風の時代の生き方へ

 はせくらみゆきさんの本を続けて読みました。

 

P16

「風の時代」と聞くと、私の中で、自然に浮かんでしまう人がおります。

 それは、中世の聖人、アッシジのフランチェスコです。

 フランチェスコは、イタリアの街アッシジに住んだ司祭で、托鉢修道院を開いた人物です。

 彼が実践したのは、すべての人や動物、取り、自然などのあらゆる一切を、自分の兄弟とみなし、自然の産物とも対話しながら「愛」を説いていったこと、そして自分と異なるものすべてを愛するという教えで、徹底的な無所有、清貧を貫いた聖人として知られています。

 ・・・

 そんなフランチェスコが生まれ育ったアッシジの街に、初めて訪れることになったのが令和元(2019)年の秋。・・・

 ・・・フランチェスコ墓所がある教会に行き、墓所の前でお祈りをしました。

 ・・・

 キャンドルに照らされた、地下にある墓所は、独特の空気が漂っています。

 そこにある椅子にたたずんで祈り、しばらく経った時、突然、心の中に声なき声が響き渡りました。

「タウの結び目の意味は、清貧・貞潔・従順と呼ばれておりますが、それはわたくしの意識がフランチェスコと呼ばれ、その時代を生きていた時に、もっとも必要で、大切な教えでございました。

 時を経た今、その形質を保ちながらも、わたくしはあなたに、この言葉を送りたいと思います。

 それは、『のびやかに・かろやかに・あなたのままに』という言葉であります」

 一瞬のうちに降りてきたこれらの言葉(正確には、インスピレーション)に、とまどいながらも、なぜ、そうした言葉に変換されていくのかを、問いかけてみることにしました。

 すると、即座に返ってきた答えは、

①のびやかに 心に何も荷物(心配や不安、欺瞞)を持たないからこそ、のびやかでいられる。

②かろやかに 清らかであろうとする心があるからこそ、軽やかに飛び立つことが出来る。

③あなたのままに 素直であろうとする心は、天に対して素と直で繋がり合う心であり、そのあらわれが、あなたのまま、あなたらしさを生きることである。

 でした。

 ・・・

 のびやかに、かろやかに、あなたのままに。

 

 この言葉を唱えるたびに、「風の時代」に流れているであろう、見えない風の気配を感じるのです。

 

P35

 私はこの「霊」(レイ・ヒ・イノチ)という自己の本体のことを、よく、内なる叡智と呼んで親しんでいます。

 時には、状況や性質に応じて、同じ実体を、神性、仏性、真我、いのち、魂、真心(真ん中の心)、本当の自分、超意識、ゼロポイントフィールド、宇宙の先見情報、サムシンググレート…などといった用語に言い換えて使うこともあります。

 ・・・

 このように肉体としての自我の意識を超えた、高次元にまたがる自己の領域を自覚、知覚することは、今後ますます大切になってくると思います。

 とはいえ、何か修行しなくちゃいけないというわけでは、決してないのです。

 

 日常の暮らしを、丁寧に生きるということ。

 丁寧に生きるとは、意識的に生きる、ということであり、

 意識的に生きるとは、今を意識して生きる、ということです。

 

 その中心にあるのは、内なる声です。その内なる声を感得しながら、想い、語り、行動してみるのです。

 

P44

 それは、ある日のことでした。

 ・・・歩いて次男と一緒に帰ることにしたのです。

 通常なら歩いて5分もかからない道が、よちよち歩きのベビーと歩くと1時間以上もかかります。なぜなら、石ころひとつ、蟻ん子一匹、目にとまるものすべてを触ったり、指さしたりしながら、ゆっくり歩くからです。

 やれやれと思いながら、やっと家の近くまでたどり着くと、私はもう勘弁してよと思いながら、次男を抱け上げ、並木道の奥にある我が家へと歩き始めました。

 すると一枚の葉っぱが、ハラリと目の前に落ちてきたのです。

 私は何気なく、その葉っぱを拾い上げ、手に取って胸の中にいる息子に見せました。

 ・・・

 その途端、ハッ!と思い、電流が走ったような衝撃を受けました。

 この葉っぱは、たった今、私の目の前に現れ、落ちてきたもの。

 それを拾い上げ、息子に見せている。

 少し前に同じ場所を歩いていても、あるいは30秒遅れていたとしても、私はまず、この葉っぱに出会うことはなかっただろうと。この落ち葉を拾い上げたのだ。

 遅くもなく早くもなく、この瞬間、この時に、一刻の狂いもなく現れ、出会うことが出来ている。

 ということは、この葉っぱと同じように、今、出会っている人やもの、風景、出来事も含めて、すべては今まさに出会っている最高最善ベストなものだったんだ!・・・

 表面の自分としては、なんでこんなことが?と思う不可解で納得できないことが起こったとしても、奥深いところの自分、いのちの自分としては、何の影響も受けることなく、ゆったりとしたままである。

 なぜなら、その出来事が、今の自分にとって、もっとも必要で、もっとも素晴らしいことであることを識っているので、何一つゆらぐことはない。