住職さんは聞き上手

住職さんは聞き上手 釈徹宗のだから世間は面白い

 釈徹宗さんと、様々な分野の方との対談集。

 興味深い話がいろいろありました。

 

P9

 読み返してみると、その時のお相手の声や表情や仕草が脳内再生される。時には対談終了後の雑談に興味深い話が聞けることもあった。たとえば、羽生善治さんが、軽口のように「AIの棋譜はわかるんですよ。棋譜を見ると、『あ、これは人工知能が指した将棋だな』って」と言うので、「人間が指したのと違うんですか?」と尋ねると、「ええ、なんて言うのかな。ほら、翻訳ソフトで英語から訳した日本語って、わかるでしょう?あんな感じです」。私を面白がらせようというトピックスだったのかもしれないが、やけに妙味のあるお話だった。

 

P57

釈 以前、東大の先生と機械を使って人がどんな音を心地いいと感じるかを調査したら、お寺の本堂では、その寺の住職がいちばんいい音を出せることがわかりました。何十年もそこでお経を上げ続けていると、声が建物と連動してくる。響く音階や、そこでの体の使い方が自然に身についてくるらしくて。

いとう その心地いい音って、倍音じゃないですか。

釈 そうです。仏教には元々、倍音声明という独特の読誦法もありますけど、それは瞑想法の一つなんですね。・・・

 ・・・

いとう ・・・じつは僕、高校三年のときに最初の精神的危機を迎えまして。希望していた大学に受かったものの、一種の燃え尽き症候群で、それから入学するまでの間に人生初のうつがきた。毎日、死ぬことしか考えられない。

 そのとき土取利行さんという音楽家のホーミーのライブに行って、買ってきたCDを家で聴いていたら涙が出てきたんです。びい~、びい~、びい~っていう倍音が聴こえてくるだけなんですよ。でも、おそらく太古の人類は、さえぎるもののない大地の上で宇宙から届く音を体で受け止めていた。仮に生きていることに何の意味もなくても、この音みたいに自分も同じバイブレーションに貫かれていることを感じられたら、それでいいじゃないか、と。で、一時間ほど泣いたら治っちゃった、うつ病が。

 ・・・とにかくわかったのは、倍音は自分にとって特別な力をもっていること、良いノイズで体を呼び覚ましてくれるということです。

 

P103

釈 ・・・脳機能論のお立場から「語感」を研究されているそうですけど、これはどういう研究なんでしょうか。

黒川 普段あまり意識されていないと思いますけど、言葉は口腔周辺の運動によって発声されています。私たちは、口腔の中に大きな空間をつくったり、舌の上に息を滑らせたり、ためた息を破裂させたり、唇を緩めたりすることで言葉を発している。そして、息が口から滑り出るときに爽やかさを、唇が緩んだときに優しさを感じたりしています。私は、こうした「発音体感」こそ、語感の本質だと考えていまして。

 ・・・

 実は、それは私にとって一〇代からやりたいことでもありました。理由は、自分の名前が「いほこ」だったから。この言葉は「い」で舌を前に出し、「ほ、こ」で息を吐く。

釈 息を吐く音が三回続きますね。

黒川 だから、二回も呼べば、横隔膜が上がり切ってヘトヘトになります。ところが、弟の名は「けんご」。親が叱るために私を呼んでも途中で怒りが消えてしまうのに、弟のほうは呼べば呼ぶほど激高してくる(笑)。そんなふうに人の体に力を入れる言葉と抜く言葉があることを感じて育ったので、高校のころから言葉の物理効果に関心があったんです。

 ・・・

 

P146

釈 ・・・佐藤さんは神学で知性を鍛錬してこられたと思うんですが、宗教には「知性を鍛錬する」という面もありますよね。

佐藤 それはあると思います。例えば、キリスト教神学の歴史を見ると、論理的に整合性が高いほう、つまり、正しいほうが負ける傾向が強いです。

釈 正しいほうが?

佐藤 理屈が通ったほうがつぶされる。

釈 声が大きい者が勝つとか。

佐藤 それはだいたい正しいです。

釈 あるいは権力が強い者が勝つ。そういうことですか。

佐藤 そうです。例を挙げると、一五世紀のボヘミア(現チェコ共和国の東部)に、ヤン・フスという宗教改革者がいました。当時、教会は分裂し、ローマ教皇が三人いた。これについて、フスは「神の代理人が三人もいるのはおかしい」と批判して、教会と対立します。教会は「あなたの考えを聞きたい」といい、フスをコンスタンツという場所で開く教会会議に招く。しかし、フスは「行けば命が危ない」と考えます。

 それに対して、三教皇の一人であるヨハネス二三世が、安導券を出すというわけです。安導券というのは、病院船とか支援物資の輸送船が敵国陣営に入るときに安全を保障するものですね。フスはそれを信じて出掛け、結局、捕まって火あぶりになる。このときの教会側の言い分はこうです。捕まえないと約束はしたが、約束を守るとは約束しなかった。

釈 ううむ、狡猾……。

佐藤 神学論争は、しばしばこんなふうに政治力や軍事力で決着がつけられます。でも、それでバランスが取れる面もあるわけです。敗けた側は「争いには負けたが、俺は正しかった」と思えるし、勝った側はどこか後ろめたい思いを抱くから。

 これは、じつは企業内の権力闘争などにもいえます。正しいことをいう人が、社内で勝つわけじゃない。でも、その人が争いに負けてポストに恵まれなくなったとしても、「自分は筋は通した」と思えれば納得がいきますよね。一方、勝って主流派に立った側にも、どこかに「やり過ぎた」という気持ちがあれば、組織全体としてバランスがとれる。組織にある種の「幅」が出る。

釈 なるほど、面白いですね。